人間関係について

ブログのトップに掲載している北海道でのワークショップに、急遽参加することにした。都合で最初の札幌の方には行けないので、稚内の近くの猿払というところで行われる遺骨発掘と、参加者同士・地元の方たちとの交流の現場に直接お邪魔する予定だ。
ぼくは元来、こういう共同生活をするような場がすごく苦手なのだが、数年前に始めて参加してから、夏冬と年二回行われるこの催しには、かなり頻繁に参加してきた。
それは結局、その場に縁とか魅力があるということなのだろう。それに今年の場合、大阪は暑すぎる。オホーツク海近くの気候も、正直大きな魅力である。


ところでかんがえてみると、ぼくは、このワークショップに関連した人間関係というのは少なからずあるが、それ以外の人間関係、とくに友人関係といったものは、「絶無」という言葉に近いほど薄い。
5年以上続いている友人関係は、この関係以外ではまったくないはずだ。そして、あまり詳しく書けないが、家族や親戚との関わりも、ある意味であまり濃密ではないように思う。
こんな私的なことをわざわざ書くのは、先日読んだ『「性愛」格差論』のなかで、斎藤環が、「負け犬女性」たち同士の連帯の強さと比較して、『僕の関わっているひきこもりやニートの場合、そういった人間関係の広がりが全然ない。』と発言していたのを思い出すからである。
ここを読んだとき、「そんなことがあるのか?」と疑問に思ったが、かんがえてみると、つい数年前まで、ぼく自身がそういう強い孤独感のなかで生きていた。
いや、先に書いたように、じつは今でもそれは何も変わっていないのだ。
ワークショップに関係した人間関係というのは、その「場」の力、あるいは中間集団の力に由来するものであって、ぼく個人が人と関わりを作り維持していく力に変化が生じたわけではない。親しい人間関係が、それを作る能力や熱意とともに、ほとんど「絶無」に近いという状態を、今も自分は生きている。


この状態を、自分の行動や思考のひとつの出発点として認めない限り、意味のあることはなにもできないだろう。
そうした非常に索漠とした状態を生きている人たちが、(斎藤が語るように)この社会には膨大な数、いるはずなのだ。
これは、かんがえると、すごい状態だ。
よく、「最近の若者はデモや抗議運動にも参加しない」という批判を聞くが、一人一人がばらばらになっているこの状態は、運動がどうこうという以前に、人間が生きていくうえでの危機だ。
それが放置されてる社会で、「他者への思いやり」とか「民主主義」みたいなものが育つとは、ぼくには考えられない。


そうなっている原因は、とてもひとことでは、いやいくら言葉を使っても言い表せないだろうが、ひとつには雇用・労働環境の変化というものが、確実にある。
フリーターのような非正規雇用の場合、「流動性」が高すぎて、労働の場で継続し安定した人間関係を作るのは、すごく困難になってきてるだろう。ところが、現実には、生活時間の大半を、そういう場での労働に当てなくては暮らしていけない、というのが雇用の現実だろう。
それがすべての原因だということではないが、そういうこともものすごく大きい。


ぼくがずっと行っているワークショップの場合、何度も言うように、これは「中間集団」のようなものとして存在しているのである。だから、この集団のなかに入れば、そのなかでの人間関係はある程度保障される。
もちろん、その弊害も考えられるが、外側の社会がこれだけ個人の生活(関係作り)に対して過酷になってくると、一種の避難所としての、こうした集団の役割は、これからより重要なものになってこざるをえないだろう。
だがそれが、個人が社会のなかで生きていく力に、どれだけ作用し関係しうるかは、別の問題である。


また、ある中間集団が、国家や社会全体に対して敵対的と見なされた場合、それに対する許容度が小さくなってきているという印象を受ける。
中間集団を個人にとっての避難所とかんがえると、このことも重大な問題だ。
たとえば「不登校」の場合、学校というのは公的な制度だが、そこに行きたがらない子どもを避難させるのは「家族」という集団の役割だ。しかし、それだけだと、今度は「家族」自体が孤立してしまいかねないので、それをフォローする上位の集団が必要になる。「親の会」的なもので支えあうということもあろうし、ぼくの知ってる例では、宗教組織がそういう支えになっていたというケースもある。
だが、そうした集団や組織が、社会全体から白い目で見られるようになるとどうか。また、国もそれを「法の下の平等」において必ずしも庇護しなくなると。どうもそういう傾向が、国家においても、社会全般においても、強まっているように思う。
そういう心配もある。


話がそれたが、ぼくはこれからも、自分が生きている人間関係の索漠とした場をたずさえて、いろいろなところに出向いたり、関わったり、傍目に見ていたりすることになると思う。
自分がものを見ている場所は、そこなのだということを、なるべく忘れないようにしたい。