「施しを受ける」・など

ワーキングプア』の番組でエントリーを二本書いて、やっぱり予想外の反応があった。
とくに、最初のものより二度目のエントリーの方がブックマークも多いし、肯定的な反応があったのは、自分としては意外だった。しっかり読んでくださってる方が多い、ということなんだろうけど。


あの番組への反応としては、あそこに登場した人たちの姿、その描かれ方、解釈のされ方が新自由主義的な考えの強化に寄与してしまう可能性が強い、という批判がひとつあるようだ。じっさい、ぼく自身も、そうとられるようなことを書いた部分がある。
ぼくが使った「誇り」という言葉への違和感をおっしゃった方もあったし、それから、あの路上生活の若者に関して、「サバイバル」ということや、「生きる意志」を強調した点は、そう受取られる可能性があるだろう。
いや、受取られるというより、このことはぼくのなかにそういう「闘争」的とか、「攻撃」的な価値観が内在していることをあらわしてる気がする。
ぼく個人の内面分析みたいなのを離れてかんがえると、これは新自由主義的な価値観というものが、ぼくたちが意識するよりも深く身心のなかにしみこんでいるということかもしれない。
これに対抗するのは、そう簡単ではないのだ。



ぼくもやはり、「誇り」という言葉を使うことには、両義的な気持ちがある。
そういうものをもたなければ、今の社会では生き抜く力をもてない人がいることも事実だが、この言葉は、やはりあまりにも国家とか市場の論理の方に回収されやすい。
「他人の誇りを傷つけるな」とはいえるが、「誇りを持って生きよ」となると、意味合いが違ってくる。
ただ、「誇り」というものから脱した生のあり方が、権力性みたいなものから逃れてるかというと、そうも言えないと思う。
たとえばぼく自身は、最低限の蓄えを手放しても、生きるための施しは受けたい。少なくともそういう面では、まったく誇り高くない。だがそれは、「依存を恥じない」という意味で、一種の権力性でありうる。それも、たちの悪い権力性だ。


だが、「施しを受ける」ということが、ほんとうに権力的でない意味での「自立」とか「誇り」とかにつながらないかというと、そうでもない。
「施しを受ける」ということは、徹底的な受動性だから、権力性を越えてそれに徹することができるのなら、それは非常に優れた生の原理なのだろう。ガンジーとか。
ぼくが、あの路上生活の青年に見たのは、そういう可能性だったのか。
でも、そこまで行くのはたいへんなことだな。それに、あの軽い感じ、あれはなんなのか?


それと、これはちょっと別のことだけど、先日、どんなに空虚な生に思えてもそれぞれに意味がある、みたいなことを確証もなく書いたけど、今日思い浮かんだのは、自分が生きることの一番の価値の源泉というのは、「自分の生を生きる」ということにあるんじゃないか、ということだ。
つまりどんなに空虚で無価値な生のように思えても、そこで生きられるのが「自分の生」であることにおいて、一般的・客観的な価値以前の、価値の源泉のようなものがそこに生じるのではないか。
なんか、こういうことを哲学的に厳密に語ることができないんだけど、自分の体のなかではそういうことを感じたような気がした。
これはたとえば、上山さんがずっと書いておられる、「再帰性」という問題ともつながるのかなあ?