『ジェンダー/セクシュアリティ』・誘惑者と共同体

ジェンダー/セクシュアリティ (思考のフロンティア)

ジェンダー/セクシュアリティ (思考のフロンティア)

なんとも読みづらいが、おそろしく刺激的な本である。


著者自身が何度か書いているとおり、ジェンダーセクシュアリティの入門書とおもって本書を読むと、たいていの読者は困惑するだろう。
文体も非常に変わっている。
この本は内容を整理して紹介しても意味がないと思うし、ぼくにはその能力も意志もないので、ここには非常に印象深かった文章を引いて、それにコメントをつけていくという形でノート風に書いてみたい(ぼくは、そういうふうにしか書けないのだが)。
出だしの部分については、以前にふれた
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生の根源的な受動性

まず、この本の一番大きなモチーフは、「生の根源的な受動性」ということだとおもう。
著者が大きな関心をよせる「セクシュアリティ」ということがらも、そこに関連している。
「生の根源的な受動性」(または「生の内在性」)とは、ぼくの言葉でいうと、前にも書いた「軟らかいもの」ということになると思う。主体として、言語や社会のなかに存在する以前の、根源的な生のあり方を、この概念によってとらえていて、いろんなふうに説明されている。
そのひとつ、著者は生を「自己なるものの贈与」(誰が誰に与えるのかはっきりしない贈与)と書いたうえで、次のように書く。

生は, それが, たとい空腹と疲労の極みで死に逝く瞬間であったとしても, この根源的な次元では、何も欠いてはいないというべきである. (p14)


ぼくは、この一節を読んで感動した。そして、ほんとうはあまり関係ないのかもしれないのだが、追いつめられた人殺しの少年の心境を描いた次の一文を思い出した。

人生がジルに禁じていたものすべてを頭のなかに思い描くことによって、彼は悲しむべき人生を生きることができた。そして悲しむべき人生は、絶対にいつわりの人生ではないのである。(ジャン・ジュネ 『ブレストの乱暴者』澁澤龍彦訳 河出文庫版p214)


ところで著者は、この受動的かつ内在的という、根源的な生のあり方を示すのに、アリストテレスの「栄養的(植物的)生」という概念を用いている。これが非常に特徴的だとおもうのは、それによって、「動物的生」という概念が否定的にとらえられることになるからだ。
ぼくのなかでは、「動物的生」は、人間中心主義的な生のとらえ方を解体するものとして、肯定的に考えられていたので、この転倒には、ちょっと面食らった*1
そしてこの「栄養的生」の特徴は、その内在性、つまり「自己」自身だけで成立するというところにある。つまり、動物とは異なり、他者を「貪り食う」ことによって自己を維持したり再生産したりすることのない生のあり方として、それは提出されている。


この、他者を必要としない「自己」(他者が不可欠である「自我」と区別される)という概念は、この本のもうひとつの重要なキーワードである。
「自己が構成する共同性」という、瞠目するようなビジョンが、後に語られる。
 

「誘惑する声」からのサヴァイヴァル

懐疑論は反駁できない. ただそれをサヴァイヴァルすることしかできない. そして, そのようにして生き延びた者が見出すのが「日常」なのである.もちろん, それは, 懐疑論に晒される以前の生とは, 同じものではない. そこには, いつも, 懐疑論の誘惑する声の残響がある. (p31)


本当にそのとおりだと言うしかない言葉だ。
生きるということは、受動的であるしかない生(魂)にとっては、サヴァイヴァルであるほかなく、その結果としての、消えることのない誘惑する声の残響のなかでの「日常」であるしかないだろう。
そのことは、人生の最初の「社会」との出会いの体験である、言語を学ぶ、という場面において示される。

つまり, 言葉を用いることは, 「自然な表現」の喪に服することなのである.(p66)


子供が言葉を学ぶとき、それは「自然な表現」(泣き声をあげるなど)が「言葉」にいつしか置き換えられていく過程であるが、その学習は拒める可能性をもたないものとして体験される。この置き換え(社会化)の過程において、人の生は受動的であるしかないという、その本質をあらわにする。

私たちは誰でも, 自分のなかに打ち捨てられた生としての子供を抱えており, その喪に服している.(p68)


受動的な生を「誘惑」するこの声とは、「人間であること」へと誘う声であり、「動物的な生」「生き物としての人間の生」と「生き方としての人間としての生」とを差異化するものだと、著者はとらえる。
人間の生の本質は、誘惑する声にさらされるほかない、その受動性(壊れやすさ、傷つきやすさ)にこそある。この声の誘惑から生き延びたか弱い者たちが作り上げるものが、共同体や社会(そして「日常」)である、とされる。

資本と生

ところで、「誘惑する声」とは、現実の社会においては、「資本」の声にほかならない。
それは、こういうことだと思う。
先に、「動物的な生」は他者を「貪り食う」と書いたが、他者とは「自己」との差異のことだろう。そこで「他者」という語を「差異」に置き換えれば、差異を「貪り食う」とは、まさに資本の運動のあり方にほかなるまい。
「動物的な生」(生き物としての生)ではない生と関係性のあり方を模索するとは、資本制の外側の生と社会を構想すること、まさに社会主義運動のテーマそのものなのだ。


本書では、根源的に受動的であるという生の本質、つまり「傷つきやすさ」とか「壊れやすさ」といったものが、資本の誘惑する声の前に剥き出しになったということに、現代の社会、ポスト・フォーディズムの社会の特徴があるとされる。
こうした社会において、われわれはこの生をどう扱ったらよいのかという、アクチュアルなテーマが、ここで提出されることになる。
著者は、この受動的である生の根源性を語るのに、「魂」という語を何度か用いているので、渋谷望『魂の労働』との関連をかんがえることは、的外れでないだろう。

退行としての社会?

セクシュアリティとは, 壊れやすさという相のもとで捉えられた生のことであると, とりあえずはいえるだろう.(p88)


誘惑されやすく、壊れやすく、傷つきやすい、生の受動的な本質を示す言葉として、セクシュアリティという語をとらえられる。

私たちの社会で日々を生き延びることは, 誘惑に打ち勝つこと, 誘惑する声からサヴァイヴァルすることと同義である.(同上)


人は、誘惑する他者の声にさらされることのない場所を確保することで、自分の傷つきやすさから「生還」しようとするのだ。

いいかえるならば私たちの社会, あるいは「社会なるもの」the socialの核心には「トラウマ」が存在するのである.(p88)


ここに、退行としての社会、と呼べるような刺激的なかんがえ方が示されていると思う。
ここで重要なことは、人間は通常どのような仕方で、「誘惑する声」から逃れて生き延びるための場所を確保しようとするか、ということだ。
それは、自分自身の弱さ、受動性、すなわち誘惑されやすさの否認、ということによってである。
著者は、こうした態度を「サディズム」という言葉によって表わすが、別の言葉でいえば、「主体」となることによって、である。


著者は、もちろんこうした態度を批判する。
それは本書では、アメリカの「ラディカル・フェミニズム」と呼ばれる主流的なフェミニズムの運動のあり方への異議としても語られている。具体的には、反ポルノ運動への批判などである。
また一方、今日のポスト・フォーディズムの社会において、『過剰露出され, 剥き出しになった生』をどう扱うかという課題に対して、その「傷つきやすさ」を気遣うあまり、セクシュアリティに対して抑圧的な社会が形成され、政策が行われることを、強く警戒する。国家が雇った心理学者や医学の専門家が、「私」を自分自身のセクシュアリティ(それは、自他を傷つけるものだとされる)から守るというような、管理社会の到来である。
これは、きわめて現在的な問題といえるだろう。

誘惑されやすい者たちの共同体

結論として、著者が提示するのは、「誘惑されやすさ」の肯定、という態度だ。

誘惑されることは, 自分の声の調子を外してしまうこと, そして, 自分の声に合意しないことである. 自分の声によって自分の声に反対すること, 自分の声のなかで自分の声に抵抗することである. 抵抗とは, 誘惑に抵抗することではなくて, むしろ, 誘惑に屈することにこそあるのではないか.(p93)  (赤字強調は引用者)


生の根源的な受動性という出発点にたちかえった、この「転倒」はブリリアントだ。
それは、自分の弱さや傷つきやすさを否認して「主体」となることの拒否であり、「サディズム」の立場に、いいかえれば他者を「貪り食う」立場に立たないという選択である。
こうした選択をしたものたちが形成する関係性、共同性のあり方は、どのように構想されるだろうか。
それが「自己が構成する共同性」であり、著者はそれを、「共同体」とよぶ。
それは、自己と差異を持つ他者を「貪り食う」ことによって成立するような、依存的な関係性の拒否であり、著者の言葉をつかえば「社会」的なものの拒否である。

同じ者同士が愛しあうという困難な企て(p94)

同じ者, 対等な者のあいだの愛(p95)


著者はその歴史上の実例として、古代ギリシャ少年愛と並んで、19世紀の社会主義運動をあげている。
その意味は上に書いたが、いわばそれは、「差異なき社会関係」「差異なき交通」の実現を目指した試みとしてとらえられているのだと思う。


著者のいう「共同体」は、「生の根源的な受動性」を否認せず、肯定することによって成り立つ。
それは、誘惑する声を拒まず、むしろ誘惑されるがままであることに価値を見出す。
誘惑されやすい者たちの共同体。
サディズム」的な原理に対する「マゾヒズム」的な生の姿勢の徹底。

共同体は, 新しくやって来た者(パゾリーニの『テオレマ』でのテレンス・スタンプを思い出そう)によって誘惑され, 自分のこれまで来た道を踏みはずす者たちによって構成されている.(p94)


誘惑者を排除しないことは、来るべき「共同体」の掟であり条件なのだ。

*1:このことは、アーレントの思想に対する著者のとらえ方とも関係する。著者は、古代ギリシャにおける「ゾーエー」(生き物としての生)から、「ビオス」(生き方としての生)を明確に区分したという点で、アーレントの「公共性」の思想を高く評価するのだ。これもぼくにとっては、驚きだった。