『「性愛」格差論』を読んで


『社会的ひきこもり』などの著書で知られる精神科医斎藤環と、『負け犬の遠吠え』がベストセラーになったエッセイスト酒井順子による対談。
「負け犬」、「おたく」、「ヤンキー」、「腐女子」というふうに生き方の趣味に関して人々が小集団に分化し、それぞれ隔たって生きるようになった現代の社会の姿について語り合う。


この本で語られていることは、大きく分けて次の二点である。
ひとつは、上記のような小集団、この本では「トライブ(部族)」と呼ばれているが、それらがおたがいにあまり関心をもたず、「島宇宙化」と呼ばれるように、平面上に互いに隔絶して存在しているという、今のわれわれの社会の状態。
もうひとつは、それらの集団のいくつかにおいて、ジェンダーによる共同性の質の違いのようなものがみられる、ということだ。
このふたつめの観点の強調が、この本の特徴だろう。

集団における男と女の違い・ルサンチマン

この違いは、ひとつには、たとえば、女性のおたくは連帯し、同じアパートで暮らしていたり年をとったら共同住宅で一緒に暮らそうという話になるが、男性のおたくではそういう話はめったに聞かない、といった形で提示される(p44など)。
また、おたくに限らず、男性の場合、連帯しようとしてもなかなかうまくいかないものだという見解が、とくに斎藤から出される。たとえば、次のように。

(前略)負け犬は連帯するとおっしゃいましたが(1章)、ニートやひきこもりはめったに連帯しません。男性はお互いに微妙な差異を見つけ出しては、「俺の方が上だ」「お前が下だ」と比較したがる。(中略)ひきこもりは何年ひきこもったかとか、職業経験があるかどうかとか、微妙な差異をみつけては権力闘争をしたがる傾向がある。その手の共同体性からなかなか自由になれない。(p174〜175)


これはもちろん、「ニート」や「ひきこもり」という属性が(少なくとも直接には)問題になっているわけではなくて、「男性にはそういうところがある」という話である。
斎藤は、これを性愛における男女の原理の違い、男性における「所有」の重視と、女性における「関係」の重視、ということに結びつけてとらえている。
これに関連して生じてくる、男性と女性との相違は、女性の場合、男性に比べて性体験の少なさがルサンチマンになる度合いが少ないことであるという。つまり、女性の場合、おたく的な趣味の世界に耽溺して現実の性愛から遠ざかっても、自分たちの集団の協調的な力もあって、それなりに自足して生きていける、ということらしい。
その通りだとすると、性体験に関するルサンチマンというのは、今の社会においてはたいへん深刻な問題だから、斎藤のいう「関係」の重視という態度を性愛の場においてとることは、社会的にも大きな意味をもつことになる。


いったい男性はなぜ、性愛に関してルサンチマンを感じやすいのか。
それはやはり、これまでの社会の仕組みだと、所有や闘争の原理を、男性は女性以上に内面化しやすいからだろう。
今のような自由競争、力の論理全盛の時代・社会では、それを内面化せざるをえない圧力はあまりにも強いといえるだろうが、もちろん、男がすべてそうなるというわけではない(また、もちろん女がみな、こういう内面化から自由である、なんてこともないだろう。)。
別の言い方をすると、男は常に自分を「欲望の主体」(斎藤)とすることに、そして女性をその対象とみなすことに慣れてきた。その自明さが脅かされて起きる動揺が、セクハラとかバッシングや暴力という形であらわれるということがあるだろう。
少なくとも、これはぼくには身に覚えがある。
いまは、男も女も、権力闘争と重ねあわされた性愛やルサンチマンの呪縛から自由になる途上で、そこでいろんな混乱やせめぎあいが起こっているという状態かもしれない。
本書を読んでそのように思った。

性愛における「関係」の重視

性愛に関する斎藤の説の当否はともかくとして、たしかに集団内部の関係性のあり方として、「所有」、言い換えれば権力闘争を重視するものと、「関係」の対等さや持続性・安定性を重視するものとの二通りがあるとは言えそうである。
後者が、とくに女性に特徴的であるといえるかどうかは分からない。むしろ、権力闘争の中心部から排除されていることが、必然的にこうした関係性のあり方をある集団の人々にもたせるのだ、という考え方もできよう。


それは別にして、こうした権力闘争的でない共同性のあり方、斎藤の言葉でいえば「関係」の重視ということが、現在の社会において大きな意味を持ちつつある、ということには、ぼくも同意できるように思う。
この本では、人々がそれぞれの趣味的な島宇宙のなかに安楽に閉じこもり、それぞれ隔絶してしまった状態を乗り越える糸口になるのは、「性愛」の力だろうということが示唆されているが、その「性愛」というのは、カント的な、あるいは村上龍的な「闘争」に結びついたそれではなく、「関係」の重視に結びつくようなそれであろう。


その可能性について、本書で具体的な示唆があるわけではないが、要するに「トライブ」それぞれの水平な共存を破壊しない形で、お互いがお互いの「趣味」を尊重しあうような性愛の共同体、みたいな方向が考えられているのではないかと思う。
これは簡単ではないが、何とか目指せるものかもしれない。
ぼくは、性愛において「関係」だけを重視することには別の危険があるような気もするけれど、ルサンチマンが発生しにくい形でお互いの欲望を肯定しながら関係しあうあり方としては、この方向は有効であるように思える。

「在宅ホームレス」と「多すぎる性愛」

ところで、本書の趣旨とはややずれてしまうと思うが、この本のなかでとくに印象に残った短いフレーズを二つあげておきたい。
ひとつは、斎藤の次の発言。

(前略)「いつか親孝行してくれるだろう」という曖昧な認識の上に同居が続く。そして結婚しない人は、家の中で在宅ホームレスになっていく。その一つがひきこもりです。(p62)


これは日本の社会においては、「自立」のイメージが西欧におけるような「家出」ではなく「親孝行」としてとらえられるため、ドロップアウトが必ずしも字義通りの「ホームレス」に結びつかないという事情を述べているものだが、「在宅ホームレス」という言葉を読んだとき、強烈な印象を受けた。
この表現は決して誇張ではない。
たしかに、すでに起こり始めているが、これから親の世代が他界していくと、在宅のまま餓死したり病死・衰弱死する「ひきこもり」やそれに近い状態の人たちが続出するだろう。
そしてこの事柄は、性愛の次元に深く結びついているものだと思う。


そしてもうひとつ、やはり斎藤による「はじめに」のなかの次の一節。

(前略)しかも性愛においては、必ずしも量が勝ち負けを規定しない。多すぎる性愛はむしろ荒廃のきざしに見えてしまいます。(p23)


なぜそうなのか、かんがえると不思議な気がするが、これもやはり事実であろう。
性愛は、安定した関係ばかりでなく、また社会的な闘争ともやや違って、荒廃や破壊や孤独とも結びつくものだ。
そのことと、上に引用した「在宅ホームレス」の状況とは、どこかで響きあっているような気がする。


ぼくは、性愛における「格差」や「隔絶」ということがほんとうに重要な意味を持つは、こうした局面においてではないかと思う。
「在宅ホームレス」と、多すぎる性愛の「荒廃」とは、この社会の外側において隔絶し、同時に結びついている。
それは一見(社会的には)関係の破壊しか意味しないような人間のあり方だが、そこでしかつながれないものが、人間の生にはあるのではないか。だとすると、それがわれわれに提示している共同的な生やコミュニケーションのあり方は、どんなものだろう。
ぼくが、「性愛」の力という言葉から思い浮かべるのは、むしろこちらのイメージなのである。