成長、初期条件、格差

これまで二回、その内容に触れてきた『所有と国家のゆくえ』の巻末には、二人の論者、稲葉振一郎立岩真也のそれぞれによる短い文章が収められている。
それらは、この対談の主要な論点のひとつになった「所得・富の再分配」と「経済成長(による富の総体的な増大)」とのどちらを優先するべきかという問題に関するものである。


その要旨については、本を読んでもらうことにしたいが、後者の優先性を主張する稲葉の説に、ぼくは同意しにくいのだが、それでもなんとなく「分かるなあ」という部分はある。それは、たとえば環境破壊を食い止めるには、むしろ経済成長にもとづく技術革新を進めることが必要だという論点。このことの理論的な妥当性は分からないけど、一度成長と技術的発達のレールに乗ってしまった以上、そこからたんに離脱してしまったのでは、もっと悲惨なことになるだろう、という直観はある。
これは、ぼく自身が基本的に、貧しくなることとか、不便なことが嫌いだからだろう。
ただ、稲葉の言っていることで、

低成長期にはマイナス・サムとなり、人々の間の利害対立は不可避となる。それを避けるためにも、好景気と経済成長の持続は必要だ(p259)


といった言葉は、日本の現状を考えると、景気が好転している(らしい)ことによって、かえって利害対立が尖鋭化している、いや、好転するために先鋭化させられてるとさえ言えるように思うので、説得力がないと思う。
成長による全体の富の増大が、個々の幸福や社会の安定(調和)を現実にはもたらしていないということは、辛いが事実であろう。その点をどう考えるのか。


また、経済成長によって社会総体の富を増大させれば、パイ自体の大きさが増えて、富者も貧者もそれぞれの取り分が増えるわけだから、分配の仕方を均等なものに変えることによって成長を阻害してしまうより、その方が合理的な策であるという稲葉の主張に対して、立岩が出している反論のなかで、もっとも根本的なことは、次のようなことだ。
立岩は、今の分配のルールを変えて均等なものにするより、まず現状のままで成長を優先させようという主張の理由のひとつは、そのほうが「反対がない」ので実行しやすいからではないか、としたうえで、自分の立場をこう書いている。

この社会のようなかたちで所有権が付与された上で市場で生ずる格差を正しい事態とは認めないということだ。そこに生ずる各自の手持ちに対する各自の権利を、基本的には、認めないとした。反対がない方を認めるのは(初期状態を問わないままでの)パレート最適主義を取るということでしかない。(p269)


この社会のあり方をどうしていくべきか、分配や公正さについて考える上で、この「初期状態」を問うか問わないか、ということは(立岩も書いているように)決定的な意見の分かれ目になるのではないかと思う。これは、このブログをはじめて以来、いつも感じてきたことだ。
ぼくも、市場や成長を重視する人たちの議論には、この社会の初期状態についての問いが多くの場合欠け落ちているように感じていて、そこがどうしても折り合わない。
ただその際、ぼくならとくに「歴史性」というふうなものを考えるが、立岩の視点は、それとは別で、もっと根本的(そしてたぶん、共時的)な「所有」の概念にかかわるもののようである。立岩の所有についての考え方は、いまはまだよく分からないので、これから知っていきたい。


もうひとつ、「格差」について。
この本での格差(不平等)についての議論で、ひとつ腑に落ちないのは、それが貧しい者の富める者に対する「嫉妬」や「羨望」ということと関係付けて語られている点だ。そのうえで、そういう感情はネガティブなものだと思われてるが、それなりの正当性や意味もあるのだというのが、二人が共通して言ってることである。
この点は、ぼくの考えが不十分で理解できてないのかもしれないが、格差の問題の本質は、不平等さに対するそういう感情(と、そこから来る社会的な不和など)の問題ではないような気がする。
ぼくの感じ方をいうと、ほんとうは格差自体もたいした問題ではない。何かもっと本質的なことが解決されれば、格差の問題はおのずから解消されるとさえ思う。
一番肝心なことは、現在の社会では、多くの人々がきわめて生きづらくなっているということ、いや、端的に生存しづらくなってるということだ。それは、格差の底辺、貧しい層の人々の場合には、直接にそうだろう。
格差の是正が必要であるのは、この状況を改善するためにであって、大衆のなかにある不平等感を解消するためではないはずだ。


所有と国家のゆくえ (NHKブックス)

所有と国家のゆくえ (NHKブックス)