運について

数日前、偶然目にした出来事。


駅を出たところが小さな公園のようになっていて、子どもたちがゴム製のボールを使って野球のまねごとをしていた。そのそばの木の下が、腰掛けられるようになっていて、母親なのか中年の女性が何かしながら子どもたちの遊ぶ様子を見るともなく見てるようだった。ぼくがたまたま通り過ぎようとしたとき、バットがボールを打つ音がして、振り返ると鋭く飛んだ打球が木の枝に当たって落下し、思わず手を広げたその女性の手元にすっぽりとおさまるのが目に入った。
女性は、まさか自分のところにボールが飛んでくるとは思わなかっただろうし、ましてキャッチするつもりなどまったくなかっただろう。ボールが来たので反射的に手を広げたところに、偶然ボールが飛び込んできたと見えた。
確率的には、かなり珍しい出来事だろう。偶然のたまものとはいえ、ナイスキャッチだと驚いたのだが、考えてみれば、そんな珍しい光景をたまたま目にした自分というのも、それ以上に運がいいのではないか?


そこでふと思った。
こういう出来事は、「運がいい」といっていいのか。ボールをたまたまキャッチしたおばさんは、まだしも子どもたちに賞賛されるかもしれない。
しかし、それをたまたま目撃したぼくは、確率的にはたいへん珍しい出来事に行き当たったと思うが、そのことによって何か「いいこと」に恵まれるという結果が生じたわけではない。ただたんに偶然に「恵まれた」というだけのことである。
「幸運」という言葉の定義を、「確率的に珍しい出来事に行き当たったことにより、よい結果がもたらされたこと」というふうに定義するなら、これは「幸運」とは呼べない。
そして逆に、「不運」というわけでもない。


だが、こういう場合、ぼくたちは「運」という言葉を使う。
その出来事が、少なくともはっきり形のあるような「幸福」や「不幸」をもたらすものでない場合にも、ぼくたちは「運」という言葉を思い浮かべて、「運がある」とか「運がない」というふうに使う。
つまり、「運」という言葉でしか表わせないような、生のなかの要素の存在を、そのとき思い起こし、感じているのではないか。
それは、ぼくたちが生きていること、生きていることを体験しつつあるということ、かつてそのことの条件が与えられたということ、それらに対する根本的な感受のあり方を示しているように思える。
ひと言で言えば、生きているということは、それだけで「運がある」とは言える。「幸運」であるかどうかとは、違った(より根本的な)意味で。
そんなことを、さっき不意に思いついた。