新しい貧困について

以前にも少し紹介した酒井隆史の『自由論』という本は、2001年に出版され、90年代の終わりからこの年までに書かれた論考を収めているのだが、いま現在日本で起こっている状況について理解するためには、もっとも重要な本のひとつだろうと思う。
とくに、後半のいくつかの章に収められた文章は、現代のこの国における新たな「貧困」の状況を、アメリカなどの例をひきながら予見したような内容になっている。その一節をヒントにして、少し考えてみたい。

「自由」の言説

たとえば、「<セキュリティ>の上昇」と題された章のなかで、「アンダークラス」と呼ばれるアメリカの新たな貧困層についての言説を分析しながら、酒井はネオリベラリズムについて次のような特徴を指摘する。

ネオリベラリズムは、福祉国家的理念やケインズ主義を特徴づける社会保険や社会化するリスク管理の形態を拒絶して、リスクを個人化することで「個人を責任主体に形成し、競争の促進や市場モデルを通して統治するよう追求する」。脱工業化のもたらす半永久的な失業人口は、かくして<社会>の引き受けるべき課題ではなく、彼ら自身の性向の問題に還元されるわけである。(p287)


こうして、「貧困」は社会問題であることをやめる。それは基本的に、個人が自ら「選択」した結果であり、その性向(怠惰、適切な努力をしないことなど)を示すもの、要するに『人の生き方、モラルの問題』となるのだ。
ここでいえることは、全てを「個人の自由な選択の結果」と考えるような社会においては、「社会問題」という概念自体が、これまでのようには成立しがたい、ということだろう。


逆にいえば、今日ぼくたちが用いる「自由」あるいは「自由意志」「個人の自由」といった概念は、おうおうにしてこのネオリベラリズムという現在の政治的な枠組みの刻印を帯びているということだと思う。
もちろん、どの時代にも概念は、その時代の社会や政治の刻印を否応なく帯びるから、この時代の「自由」という概念が、それだけで疑わしいといいたいわけではない。だが、それは不可避的に、特定の政治的な、控えめにいえば社会的な性格を必ず持つものだということを言いたいのだ。


たとえば、在日朝鮮人の日本への渡航理由に関して、「自分の意志で」ということが強調されるとき、その根底にあるのは、歴史修正主義的な考えではなく、個人の「自由」に対する尊重の考えである場合が多いと思う。前にも書いたように、こうした傾向は、左派の歴史研究者のなかにも見られるものである。
これは、人間が生きる現実を見出すためのひとつの有効な思想の立場でありうると思うが、現在の社会と自己のあり方を無批判に容認してしまうイデオロギーとして機能する危険性をもっている。


いわゆる「ワーキング・プア」についても、個人の努力によってそこから抜け出しうる可能性を強調することは大事なことだが、それが産業構造の変化によって生じてきた新たな構造的問題であるという厳然たる事実が、その強調によって見えにくくされてはならないと思う。

「内―植民地化」と歴史の喪失

ところで、この構造的問題としての新たな「貧困」は、さらにどんな性格をもっているのだろう。
同じく『自由論』のなかの別の箇所では、酒井はポール・ヴィリリオが、福祉国家からポスト福祉国家へのプロセスを「内―植民地化」(endo colonization)と呼んだことを参照し、ヴィリリオの言葉を引いている。

「人が植民地化するのは自分のところの住民だけです。人は自分の国の文民(民間)経済を低成長に追いやるのです」。(p341)


ヴィリリオによれば福祉国家は「歴史を持続として捉える国家」であり、そこでは個人もまた自分の人生の時間を「漸進的な発展」として想像する。だが、ポスト福祉国家を特徴づける時間とは「緊急事態の時間」であるという。
酒井はこう書く。

延々と繰りかえされる競争と勝ち負け、そして消費の快楽の時間。市場と個人主義的快楽とセラピーとあとはポリスによる管理。(p342)


つまり、「内―植民地化」と表現されるこの時代においては、統治される人々は、持続としての「歴史」を喪失し、またそれゆえに「反省する時間」をも剥奪されている。
「人生の意味」とかつてなら呼べた(といっても、植民地本国の人間にとってだけだが)ような、内実をともなった人生の持続の実感、それはもはやすっかり奪われている。
希望や静かな諦念をもって予期できるような「将来」はない。成長の実感とともに懐かしく想起される過去の人生の生き生きとした共同的な思い出もない。ただ、仕事に忙殺される日常と、テレビ番組とインターネットと、消費と空虚な休日の時間の、無味乾燥な反復。そして、そののっぺりした変わることのない時間のなかに、無機質に突然挿入される、非人称の「死」による切断。


現代における「貧困」とは、そして「内―植民地化」とは、この「人生の意味」や「人生の時間」の剥奪、自分の生も死も、それを守るために抵抗などしようもないような非人称の空虚なものに変えられてしまった上での出来事なのだ。
それは、福祉国家を含む国民国家時代の貧困とは、やはりいくらか違うものだろう。


自由論―現在性の系譜学

自由論―現在性の系譜学