親日派問題について

先週だったと思うが、NHKスペシャルで植民地朝鮮の独立運動期のいわゆる「親日派」のことを扱っていた。
この番組は、李光洙など有名な人の話だったが、韓国での親日派問題というと、前の盧武鉉大統領の時に、(広義の)この問題の真相究明のための委員会や、財産没収に関する法律などが出来て、日本でもそのことがかなり話題になったと思う。


ぼくも、よく知っている人から、知人の韓国人のおばあさんが、この法律のために財産を没収されて悲しい目にあった、というようなことを聞かされ、中国の文化大革命のときの逸話なども思い出し、それが「ひどい話である」と言われると、たしかにそのように思わざるをえなかった。
しかし、あらためて考えてみると、その人が先祖代々(といっても植民地期以降だろうが)蓄積してきた財産というのが、なんらかの不正義にもとづいて積み上げられたものであるならば、その何割かを国が没収して他の多くの人々のために使うということは(そうきちんといくかどうかが別の問題ではあるが)、果たして「ひどい話」と一方的に言ってすむことだろうか?
これは、民族的・国民的な「制裁」というような意味とは別に、公正な再分配という観点から見て、評価されるべきところがあるのではないか?
もちろん、「行き過ぎ」や「筋違い」ということはいつの場合にも起きるわけで、それは起きるべきでないには決まっているが、だからといって、そうした「実力行使」による不正義・不平等の是正がまったく行われない社会が、むしろそれ以上に暴力的なものでないと本当に言えるのかということである。


別に韓国に限らず、世界でも日本でも、歴史上の不正(暴力)によって得られた富や「私有財産」の保有の権利は尊重されても、その財産が得られた際に他の人々から不当に奪い取られた財産については、奪われた人たちの権利やその被害の大きさが考慮されることなどないのが、今の社会の仕組みである。
なぜ、前者の「財産」や「権利」や「自由」だけが尊重され、後者のそれはまったく無視されるのか。
ぼくたちの意識と感覚のなかにもあるこの偏りこそが、よくよく問い直されねばならないのだ。


現実に日本の社会でも、いま富や政治権力を握っている人の多くは、侵略や植民地支配と結びついた歴史のなかで蓄積された財産を土台にして生きてきたような人たちだ。
朝鮮人を連れて来て働かせていた九州の炭鉱財閥の子孫である前総理とか、開拓地だった北海道の大牧場の跡取りで自民党の最大派閥の領袖のような人が、その代々の富の蓄積の過程を問題視されることもなく、いまだに権力の中心に居るのが、この国なのである。
歴史をめぐる公正な「再分配」の問題は、ほんとうは韓国の問題であるよりもはるかに日本の現在の問題のはずなのだ。


とはいえ、そうした「不正義」、「不公平」、「不平等」も、それがそう悪くない結果をもたらすというのなら、ある程度なら認めても良いと思う(というのは、どういう場合にも暴力や不正義が全く避けられるということは無いだろうと思うからだが)。
しかし、どうもこうしたことを放置しておくことによる弊害が、「暴力的な再分配」の弊害に比べて、さほどマシとも言えない事が分かってきたのが、最近の実情ではないか?


今の日本の社会では、たとえばロシア革命や、中国の文化大革命といった、劇的で大掛かりな再分配、不平等の是正の試みが巨大な破壊や被害をもたらしたことがさかんに強調され、われわれは易々とその言い分を内面化して、「ひどい話だ」と考える。
ぼくが「親日派」とされて財産(の何割か)を没収されたおばあさんに起きた出来事を「ひどい話だ」と思ったのも、同じ内面から発している部分がある。
その一方で、現在起きている明らかな不正義、富の偏った蓄積が加速度的に続いていくなかで、甚大な貧困や飢餓が生み出されて、しかも固定化されつつあるという、この巨大な暴力については、われわれはなるべくそれを過小に考えるか、忘れて生きることにしようとするのである。要するにこの暴力によって多くの子どもたちや大人が苦しみ死に続けている現実の方は、「チャリティーやボランティアが大事ですね」という感想以上には「ひどいこと」とは考えられないのだ(このことは、植民地統治の時代から何ら変わっていない。)。
最も重要なことは、この「二つの暴力」、「二つの破壊」についてのわれわれの見方、感じ方の、この極度のアンバランスに気づくということ、そしてその理由について考える、ということではないだろうか。


このアンバランスが生じるのは、社会主義によってもたらされた過去の被害を強調することは、現在の支配的な秩序のイデオロギーに沿っているが、過去の暴力的な蓄積の果てに現在も継続している破壊と収奪については、それに異を唱えることが、自分たち自身の生活をも危うくしかねないものだと、ぼくたちに思われているからだろう。
とりあえずは、そう思う。
「何世代もの不正義」に基づいた、現在の社会の富と権力の不平等を問題にすることは、国と国との関係、集団と集団との関係においてみれば(というのは、日本は侵略や収奪をした側だからだが)、やがては自分自身の財産や安定をも危うくする。
また、社会の支配的なイデオロギーに反旗を翻すことは、自分の身にとってきっと多大な不利をもたらすはずだ。つまりそれは、自分を今より生きにくくさせる。
そう考えるから、われわれはこの問題(社会の不平等)に深く切り込もうとしないし、この問題に直面することをわれわれに迫ってくるであろうような動向は、それを察知して否定してしまおうとする。
つまり、韓国における「親日派」批判と清算の動きに対しては、これをもっぱら否定的にのみ扱おうとする心理的機制(「ひどい話だ」etc)が働くのである。なぜなら、植民地支配の歴史の清算をめぐるこの問題が、突き詰められるなら決して「他国の問題」で終わるはずはないことを、われわれは薄々知っているからだ。


実をいえば、われわれはわれわれの現在の社会が、その成り立ちからして不正義をはらんでいることを知っているのだが、われわれ自身を苦しめてもいるその不正義の構造を告発することは、自分自身の財産や生活まで危うくしかねないものだと思っているから、それについて黙っている。
だが、この思い込みは、根拠のあるものだろうか?
韓国における「親日派」への批判が、ほんとうに突き詰められるならば、それは植民地支配に発する富の不平等な蓄積の是正という目的を、やがては国家の枠さえも越えて目指していく動きとなるのではないだろうか?
この運動を「民主化」の過程、韓国の人たちの根本的な自己解放のための不可欠な一過程として捉えるなら(そうするべきだと思うが)、そのはらんでいるベクトルは、同じ不平等な蓄積の構造からの、われわれ自身の「解放」をも含んでいるはずである。もちろん、われわれの側が、その「呼びかけ」に呼応しえた場合の話だが。


いや単純に考えても、不平等な富や権力の蓄積を是正しようとする動きが、現にその不平等によって苦しんでいる人間(つまりわれわれ)に利益をもたらさないということは、まともなら起きるはずがないことではないか?
親日派」批判が元来目指しているものは、われわれをも現に抑圧している、この不平等な構造を変えようということである。



民主化」という言葉を、ぼくもよく使うが、考えてみると、抽象的な民主化というものはないのだ。
どの民主化も、かならず固有の抑圧からの解放の闘いである。
韓国の場合、それは日本による植民地支配、そしてアメリカによる軍事的・政治的支配の歴史や現在と切り離せないものだ。何もないところに、「民主化されるべき」韓国の政治的現実(つまり軍事政権とかそういうことだが)が生まれたわけではないのである。
だから「親日派」の問題は、韓国の民主化運動にとって固有のこの条件と結びついたものとしてある。自らの内心を切り刻むようなその困難な問題に向き合うこと(たんに「絶対的正義」や「大義」の立場からの暴力に終わるのでなければ、必ずそういう要素を持つ筈である)を通して、あの国の人たちは、自分たちの社会と意識とを、真に民主的なものにしていこうと試みたのだ。


だがそれでは、日本のわれわれ自身が、過去も今も受け続けている「固有の抑圧」とはなんであり、民主化の固有の条件とはどんなものか?
それにあえて立ち向かうことを通して、他者の解放をも容易なものとするような(たとえば沖縄のことを考えよ)、固有の闘いのリアリティーとは何なのか?
そのことにはっきり気づかなければ、われわれが民主化運動の国境を越えた隊列に、真に加わることは出来ないはずである。