祖国について

引き続き、岡真理の『記憶/物語』を読んで。


もうひとつは、本の最後のところで「祖国」ということについて書いてあって、ぼくもずっとこの言葉をテーマにして文を書こうと思ってたので、たいへん入っていきやすかった。
とくにガッサン・カナファーニーの『祖国とは, このようなことのすべてが, 起きてはならないところなのだよ』という言葉を引いて語られる次のような述懐。

祖国とは, こうした<出来事>のすべてが決して起きてはならないところだとしたら, この国は, わたしにとって祖国であるのだろうか.(p109)


これはぼくは、朝鮮語を勉強するようになってから、ずっと感じてたことだった。
というのは、大韓民国とか朝鮮民主主義人民共和国という言葉に対応するものとしては、自分にはたしかに日本国という帰属があるのだが(他者から見れば否応なくそうだろう)、国名でなく、朝鮮語とか朝鮮人という場合の「朝鮮」という言葉に対応するものは、どうも自分のなかにはないような気がしていた(「韓」という言葉については、よく分からない)。
「日本」というのは、ぼくにとっては自分の「国家」ではあるが、自分の「国」とか「祖国」というのとは違う。


ぼくの考える「祖国」というのは、もっと身体的なもの、別の言い方をするとエロティックなものである。「死者の骨にはエロスがある」といわれるような意味でのエロティシズム。
ぼくが、「祖国」という言葉について、「こういう意味で使われるのなら、この言葉には勝てない」と思ったのは、ジュネが『泥棒日記』のなかで、愛人スティリターノについて語った次の一節を読んだときだった。

一方彼は、わたしがひそかに彼をどのようなことに役立たせていたかということは知らなかった、そして彼がわたしにとって人が祖国とよぶもの、すなわち、兵士の中にあって兵士に代って戦い、そして彼を犠牲にするところの実体であったということも。(朝吹三吉訳 新潮文庫版p272)


ジュネを敬愛した三島由紀夫にとっては、天皇はそうしたエロスの対象であり、日本はそういう意味での「祖国」だったのだろう。
でも、ぼくにとっては、それは無理だ。ジュネにとって、フランスが「祖国」でなかったように、ぼくにとっても日本は「祖国」ではない。


人が生きるために「祖国」は必要か?
エロスとか、他者を含むという意味での集合的な生に関わるものとしては、その必要性を軽視できないと今は思う。もちろん、ジュネが書いてるような意味でだが。