拘っていること

たしかに、こういうことはいえる。


たとえば、在日朝鮮人の民族教育をとっても、日本ではその制度的な保障は、まったく不十分である。
同時に、政治的・社会的な傾向・風潮からいっても、あたかも在日朝鮮人が民族教育を受けることは、社会的に望ましくないことであるかのように当人に考えさせる、強い圧力(バイアス)が働いている。
この状況そのものを不問にして、本人が「民族教育を選択する権利」と、「民族教育を選択しない権利」とを併置することは、ナンセンスであるばかりか、圧力に加担することでさえあるだろう。
実際、制度がまともなものに改革され、政治や社会のあり方が排外的でも差別的でもないものに変ったなら、民族教育を受けたいという在日朝鮮人の子どもは、ずっと増えるかもしれない。
もちろん、そうならないかも知れないが、それに関わりなく、現状の社会の圧力を解除していくことは間違いなく重要である。選択の結果が民族教育を受けることについて、イエスであってもノーであっても、そこに不当な圧力が働いていることの暴力性には変わりがないからだ。
つまり、本人の選択のいかんに関わりなく、不当な圧力は解除されねばならない。


しかしそのことは、現状の社会のあり方がどうであれ、本心からそれを選択しない人が居るかもしれないこと、その人の権利や自由意志が守られる必要があることを排除するものではない。
もちろん、今の日本社会では、そうした選択を行うことの自由(自由意志そのものではなく)は、おおむね保護されているといえる。逆のケースの阻害要因の方が、はるかに重大な問題だろう。
だが基本的には、本人がどんな選択を行おうと、それ自体は自由な選択の結果として尊重されねばならない。他人が、それを「自由な選択の結果ではない」という風に言って、変えさせる権利は、最終的にはない。


考えられるべきことは、なるほどまず社会全体の不当な圧力の解除だろう。
「日本人の責任」ということも、そこに関わるだろう。
だが同時に、この「不当な圧力の解除」ということを含めて、本人の選択と意志の自由を、どう尊重するか、という事の重要性は残る。
言い換えれば、基本的人権に関わることの、あらゆる局面における尊重という課題は残る。
ぼくが拘るのは、そのことである。