『魂の労働』共同体の話への短い補足

きのう書いたことについて補足しておきたい。
最後の部分で、『魂の労働』の「4 ポストモダンの宿命論」という章の終わりに「オルタナティブな共同体的な生存」ということについて書かれていることを紹介したが、ぼくがその前に「講」のことを書いたり、「義務」の感情ということと無理につなげてしまったので分かりにくくなったと思うが、あれはナショナルな共同性ともエスニックな共同性とも切れた、「ミニマムな」共同性のことを言っているのだと思う。
具体的には、あの部分で著者の渋谷望さんが参照しているのは、ジム・ジャームッシュの『ゴースト・ドッグ』という映画に出てくる貧しい黒人青年が、自分の命を助けてくれたイタリア人のチンピラを助けるために命を投げ出すという話だ。この青年が置かれている、未来への希望や社会的な構築(つまり政治につながる意志)を断念しなければならないような、排除された空間に生きる人々の間には、これまでのものとは違ったミニマムな共同性が現れつつあるのではないか、というのがあそこでの指摘だったと思う。

生存であると同時に死でもあるような生死のあり方は、例外状態が恒常化した排除の空間において維持される共同性の唯一の条件なのかもしれない。(115ページ)


そのうえで、この新種の共同性が持つ抵抗の可能性と危険性について、考察されていた。
これを、どう考えるか。この著者は、「政治性の欠如」に関して否定的な考えの人であると思っていたので、こうした「脱政治化」されたミニマムな共同性に対して、両義的とはいえ、その可能性を認める考察がされていたことが、ぼくには印象的だった。
つまり、この共同性は、ナショナルやエスニックな差異を横断しているように見えるとはいえ、いかなる社会的構築(政治)にも向かわない種類のものであるはずなのだ。そこに、「新自由主義」的な社会の趨勢や権力に対しての抵抗の可能性を、著者は見出せるかもしれないと考えている。
このミニマムな共同性こそが、ポストモダンの今日的な形態、つまりミクロ政治学の実践である、ということだろうか。著者が示唆しているように、これは非常に保守的というか、反動的にさえ見えるものであろうと思うが、このミニマムな倫理の非政治性、いやむしろ反政治性をどうとらえるかは、今日の社会にあっては非常に重要なテーマだろう。
これはやっぱり「義務」、つまり(ミニマムな)共同性における倫理的な感情ということにつながるなあ。「奉仕」や「自己犠牲」や「義務」といった言葉が、若い人たちの心に一定の説得力をもって受取られる素地が、現代の社会構造にはあるということが、この章で述べられていることの要点であろう。