ワーキングプア・誇りについて

ワーキングプア」をとりあげたNスペのことを書いたきのうのエントリーだが、予想外に反響があった。やはりテレビ番組をとりあげると反響が違うというのは知ってるけど、この話題はとくに多くの人が切実なテーマとして見たのだろう。
あとで、他のサイトを見ると、いくつか告知がされているところがあって、放映前から注目されてたことが分かる。構造的な問題として、こういう社会の現状をとりあげたのは、すごく大きな意味があった。
最近、NHKはなかなかいい番組を作ってると思う。


また今回の番組の場合、実例として取材を受けカメラの前に立たれた、いわば「当事者」の方たちの存在感というものも、たいへん大きかったと思う。
お名前は「仮名」ということだったが、顔を出して、しかも自分の生活ぶりや経済状態などや、自分の意見・気持ちまで、あんなにしっかり出せるというのはすごい。もちろん、なにがしかしっかりしたものを持ってる人たちだから、こういう取材にも応じたのだろうが、この人たちの生の姿と声があったことによって、この番組はインパクトのあるものになったと思う。
ここでは、きのう書き残したことや、アップしてから考えたことなどを書いておく。


とりあげられていた秋田県のある町では、税金が払えない人が役所の前に行列を作っているのだが、多すぎて別個の窓口を作らないとさばききれないほどである。
このところ、朝鮮総連の免税措置廃止について書いているが、率直なところ、これだけ経済的に困窮してる人が多いのでは、よく知らない特定の人たちへの理由のはっきりしない優遇措置に対して反感が強まるのは、まあ仕方がない面もあると思った。
ぼくとしては、この免税措置が、組織の特権ということではなくて、在日の人たちの朝鮮人としての教育や生活を支えているものでもあるという事情をよく知ってから判断してほしいという気がするが、一般的な感情としてはそうなるだろう。
だが、ちょっとここで考えたいことがある。


番組に登場したこの秋田の田舎町のおじいさんは、一食の食費が100円ぐらいで生活しておられるのだが、アルツハイマーをわずらった奥さんが居る。この奥さんの入院費で年金は大方消えてしまう。医療・保険制度の改革でもうすぐ負担がいまの2倍になることになり、そうなると、とてもやっていけない。
残された道は生活保護しかないのだが、いま手元に「妻の葬式の費用に」と残してある100万円の貯金がある。現状の制度では、この100万円の貯金があるために、生活保護を受けられないというのだ。ほんとうに持ち金がゼロになってしまわないと保護を受けられない、日本の福祉制度。
これは、必ずしも「新自由主義」以後の問題でもないだろう。
これについて、宮本みち子は、「妻の葬式代だけは自分で」という自立への「誇り」というものを無視するような面が、日本の生活保護の制度にはあると指摘し、そうしたことを重視する「柔軟な福祉制度」に切り替えていく必要があるのではないか、と語っていた。
「誇りを重視しない社会国家」、これは生活保護に限らず、日本という国の、とりわけ戦後のこの国のあり方をよく示しているのではないだろうか?


これは、以前大阪うつぼ公園にテントを張って暮らす野宿者が、市の作ったシェルターのような施設への入所を拒んでいるということについて書いていたときにも、ずっと感じてたことだった。

http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20060118/p1
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20060124/p1

これまで作ってきたコミュニティーやプライバシーを守って生活を送りたいという人たちの気持ちを無視して、行政は人を規格のなかに押し込めようとする。
公的な規格からはみ出すような、個々の人間、個々のコミュニティーの、形にならない「誇り」のような部分を、この国の制度は認めないところがある。
いわゆる「改革」以後は、新自由主義ということで、それが弱者の「死」に直結するので、すごく目立ってるけど、「福祉制度」が健在だった頃から、そういう個々の「生」に対する「こだわり」とか「誇り」を軽視するという面は、ずっと日本の制度にはあったのではないか。


在日の問題にしても、よく「なぜ帰化しないのか?」とか「なぜ、民族教育にこだわるのか?」という疑問が出されるけど、これはひとつには、日本の国(韓国もかも)のやり方が在日の人たちの「誇り」を踏みにじるようなものだったことが大きい。
日本の国に朝鮮人として生まれた一人の人間の誇りを保持するためには、民族教育というもの、また同胞のコミュニティーというものも、重要なひとつの手段だ。それだけが、というわけではないが、ここに「誇り」の根拠をもってる人は大勢いる。また、そうならざるを得ないような仕打ちを、日本の側がしてきたということもあると思う。
ここでまた「免税」の話には戻さないけど、さまざまな境遇に生まれた人たちの生の保障ということを、その「誇り」の部分まで含めて考えることは、これからとくに日本ではすごく大事になってくるんじゃないかと思う。


以上のことにスッとつながるどうか、もう一点。
やはりあの最後に紹介されてた35歳の東京で路上生活をしている青年のことが気になる。
それは、たしかに希望のない悲惨な境遇なのだが、どこか生き生きとして、すくなくともすごく身軽い感じに見えたということである。
彼は、社会的な意味では「労働」をしていないのだが、毎日生きるために雑誌拾いをしている。いわば本当のサバイバルである。このことと、あの生き生きした感じがつながってるのかもしれない。
つまり、社会的にではないが、非常に自立した生存のあり方をしてるのだろうと思う。
どこかで、生きてること自体が働いてることだ、という言葉を読んだが、いい言葉だ。
社会的に認められなくても、生きていくこと自体に、というか、生きようとする意志自体に価値がある。
「誇り」という目に見えない、形のないものの重視は、そこに関係してる気がする。