夜間中学問題に見るこの国の体質

今朝の毎日新聞に、大阪府が続けてきた夜間中学に通う人たち(そのなかで所得が低い人たち)のための就学援助制度を打ち切ることへの批判が議会で(自民・共産など)相次いだ、という記事が出ていた。
これについては、やはり毎日新聞に、先日以下のような記者の意見記事が載った。


記者の目:「就学援助」廃止方針の橋下府知事http://mainichi.jp/select/opinion/eye/news/20080701ddm004070200000c.html


同感だが、少し補足する。

就学援助の責務履行を別途、国に求める道もあったはずだ。憲法が記す「義務教育の無償」は、国による教育機会の保障をうたったものだ。夜間中学生の多くが、国の戦争で義務教育を奪われたのだから。


戦争で義務教育が受けられなかった、ということも重要だが、現在多くの高齢の人たちがこうした教育を必要とする状況になってるのには、他にも過去の、個人的とは言えない事情があるのだ。
というのは、「日本には文盲はいない」という建前があったために、戦後、国(文部省)は一貫して、こういう人たちのための識字教育の必要を認めてこなかった。「夜間中学」は、国際的な建前から考えて「あってはならない(必要のあるはずがない)存在」とされてきたために、政策も予算も、まったく手が打たれなかったのだ。
上の記事でも少し書かれてるように、こうした夜間学級を公立の学校の施設を使って行うことを文部省に認めさせるまでには、現場の教育にたずさわる人たちや当事者による、非常に長い働きかけが必要だったのである。


実際には、漢字の読み書きのできない人などは、ぼくの祖母も含めて、戦後の日本には山ほど居た。そして、ひらがなの読み書きができない人の数も、決して少なくなかったことが、今では明らかになっている。
こういう人たちへの、国の放置、意図的なネグレクトがあったために、今でも高齢になって、「夜間中学」に通って字を習う必要のある人たちが居る。
個々の人に話を聞けば、「若いときは、生活に精一杯で、学校に行く余裕なんてなかったから」と私的な理由を答えるかもしれないけど、そもそもそんなぎりぎりの生活を続けなければならなかったことと「読み書きができない」というハンディキャップとが切り離せないことは明らかで、だとすれば、その人たちに対する教育保障の責務を、分かっていながら放置してきた国の責任は大きい。
そこに教育を受けさせるべき人たちが多く居るということが分かっていながら、国は国際社会への建前を守るために、その救済の義務をあえて怠ってきたのである。
このような教育は、元来決して「慈善」ではなく、行政が行うべき義務である。
そしてこれは本来、国がやるべき仕事なのだ。


行政の論理や(国際的な)建前が優先されて、それに適合しないからといって、現実に存在していて施策や支援を必要としてる人たちの存在が「あってはならないもの」「存在するはずのないもの」のように扱われ、放置される。そのまま忘れ去られそうにもなる。むしろそのことが、望まれているようでさえある。
たとえば先住民問題にも見られる構図だが、この国の行政のこういう体質は今も一貫している。
その犠牲の一例として、多くの高齢の人たちが今になって「夜間中学」に通わねばならないという現実があるのだ。



国の意図的な怠慢が原因でハンディを背負うことになった人たちを、経済的にバックアップするという大阪府の制度は、本来それを行うべき国が何もやっていない以上、立派な制度といえると同時に、当然(どこの都道府県でも)行うべき制度である。
それをしないのであれば、国に強く求めるべきであり、またそれが本筋なのだ。
「本来国が行うべきなのに、やってない」ことが理由となって、犠牲になってきた人たちがハンディを丸抱えするのは、なおさら理不尽な話なわけだから、誰か(どこか)が、この人たちを援助するための負担を引き受けねばならないのである。
大阪府もまた、国が過去に果たしてこなかった公的な義務を肩代わりする意味での援助制度を当面維持しながら、根本的には国の責任を追及していくべきであると思う。
その責任を、われわれ有権者は、これらの人たちに対して負っているのである。