スライド上映会『70年代の釜ヶ崎』

16日日曜日、大阪市西成区でおこなわれた、1970年代の大阪釜ヶ崎の日雇い労働者の人たちの様子を映したスライドの上映と、お話を聞く会に行ってきました。
スライドは、当時日雇い労働者として働きながら写真を撮っていた小杉邦夫という人の撮ったもので、お話は、この地域でこどもや労働者の問題とずっと関わってきておられる釜ヶ崎キリスト教協友会の小柳伸顕さんに聞かせていただきました。


このスライド作品は、「釜ヶ崎 1976冬」という題がついていて、この年のいわゆる「越冬闘争」の記録を中心にしているそうです。当時の様子を生々しく伝える貴重な写真ばかりで、それらを見ながら、当時を知る小柳さんのお話をうかがうことで、たいへん多くのことを感じ、考えることができました。
以下、とくにぼくが強く印象に残ったところを中心に、お話の内容を紹介します。
なお、不明な点などがあったので、お話しを聞いた後に、釜ヶ崎などの事情に詳しい他の方から何点かサジェスチョンをしていただきました。その部分は字体を変えて「注記」として記しました。


① 当時釜ヶ崎には、約2万5千人の日雇い労働者が暮らしていた。今よりずっと仕事があり、人手が足りないほどであった。当時は、支援の学生も、日雇いで働きながら活動をしたりしていたほどだった。また、日雇いの賃金も総体によくて、鳶の仕事などは一日6千円ぐらいであったようだ(当時としては高給)。


② この頃、「カンオケ」と呼ばれたドヤがあった。概観を見ると雑居ビルのようだが、中はひとつの階を上下二つに区切って、狭い寝床にしてあった。そこに、ちょうど寝袋に入るような格好で足から潜り込んで眠ったのである。こんな状態だから、火事が起きても逃げ出すのが困難で、必ず何人かが焼け死んでいた。
なかには、ここに父子二人で入って暮らしていた労働者の親子もけっこう居た。


③ 火事についてだが、当時、西成の簡易ホテルで火事があり、4人が死亡した事件があった。これは、全ての窓に金網が張られていたため、逃げられなかったのである。当時は、それが普通であった。現在でも、簡易ホテルが火事になると、よく焼け死ぬ人が出るらしい。


④ 当時は、景気が悪くなっても、5、6年経つと回復したものである。また、この土地に来て、その日は仕事がなくて野宿しても、次の日にはなんとか仕事にありつけるという感覚があり、労働者みんなに元気があった。それで、組合的な「闘争」なども活発に出来たという面もある。
ところが、80年代末から始まった不景気は、それとは違い、10数年たってもよくならなかった。釜ヶ崎の人々は、そのなかで仕事も元気も失っていった(このことについては、後でふれます)。


⑤ 繰り返しになるが、70年代中ごろは景気がよくて仕事がたくさんあったので、日雇いの人でも、野宿者になる人はたいへん少なかった。それで、当時の野宿者問題は、身体障害者の人や、高齢者の問題であったといえる。


注記:日雇い労働者の生活というのは、基本的に野宿と隣りあわせというか、野宿が生活サイクルのなかに入っているともいえるものだそうです。だからこの時代というのは、「野宿になる人が少なかった」というより、「恒常的に野宿生活をする人が少なかった」ということ。したがって、テントを張って生活するよりも、路上などで生活する人の方が多かった。やがて状況の変化にともなって野宿が恒常的になるにつれ、それを生き抜くための手段としてテントが選ばれるようになった、ということらしい。


⑥ 当時は、警察の取り締まりはたいへん強硬であり、行政も警察も露骨に日雇い労働者の活動を押し潰そうとした。キリスト教関係者が町や公園で炊き出しなどをしていても、警察に囲まれて職務質問を受けることがたびたびあった。
ともかく、釜ヶ崎の町全体が、強力な治安対策の対象にされているという感じだった。
今は、そうした露骨なことは少なくなったが、やり方が巧妙になっているのではないか。


⑦ この時期、大阪市内(釜ヶ崎近辺)の花園公園というところと、萩之茶屋北公園というところの二ヶ所で、テントを撤去する行政代執行がおこなわれた。これは、事情があって宿泊所から不当に締め出された人たちが張ったテントだったらしい。
これらの代執行では、ブルドーザーやダンプが動員されたり、労働者への放水がおこなわれたりした。また、事前に目をつけられていたメンバーが逮捕されたり、ということもあった。警察から暴行を受けることも多く、このときに暴行を受けた一人は、逆に警察を告訴して勝訴するということもあった。
守る側も木の棒で武装したりしていて、激しくぶつかり合っていた時代だった。
 

⑧ 当時、釜ヶ崎の人たちに対する行政の扱いも、本当にひどかった。
生活保護の申請は、障害者であっても、「まだ若いから」などの理由で、ほとんど拒否された。路上死などで亡くなった人の数は、保険所に問い合わせても絶対教えてくれず、新聞に死亡記事が載るということもなかった。
病院もなかなか受け付けてくれないので、夜回りで倒れている人を見つけても、連れて行く所がなかった。救急車を呼んでも来てくれず、やっと来ても病人に「起きろ、コラ」などとひどい扱いである。
大阪市などに交渉に行っても、「組合と一緒にやってるから」という理由で断られ、会ってさえもらえなかった。
また、とくに当時は結核にかかる労働者の人が多く、支援の人たちも感染するケースが多かった。結核罹患率は、当時全国平均の百倍ぐらいあったのではないか。労働者たちは、結核にかかっていることが分かっても入院させてもらえず、「結核患者を入院させろ!」が越冬闘争のスローガンだったほどである。


⑨ 現在、生活保護が受けにくくなっているという話をよく聞くが、今は「日本中が釜ヶ崎化している」と言えるのではないか。
また、財政上の理由による経費の削減などから、今後は「救急車を呼んでも来てくれない」という時代になると思う。釜ヶ崎での死者の数は、今後増加するのではないか。
労働者たち自身にも、かつてのような元気さがなくなっていると感じられるのが、とても気がかりだ。


注記:この最後の「元気さがなくなってる」ということに関してですが、別の方に話をうかがうと、釜ヶ崎に集まる日雇い労働者の高齢化が大きな要因ではないか、とのことでした。今では比較的若い人は、釜ヶ崎に来なくても、携帯やスポーツ新聞などで簡単に仕事が探せてしまう。つまり、釜ヶ崎の「寄せ場」としての機能が意味をなさなくなり、「派遣」や「非正規雇用」の増大による「全国の寄せ場化」がすすんだ。その結果、ずっと日雇いでやってきた、昔からの(高齢の)労働者たちが釜ヶ崎に取り残されているという現状があるのではないか、とのことでした。

「場所は記憶している」

小柳さんのお話の報告は以上ですが、ほかにお話のなかでとくに印象深かったエピソードを、二つ書いておきます。
ひとつは、日雇い労働者の人たちの「誇り」に関すること。結核である病院に入院された方があったのですが、一般の患者さんと同室の大部屋だった。他の人たちは家族などが見舞いに来るので、その見舞いの品を自分にもおすそ分けしてもらうことが、よくあった。その人には、やはり見舞いに来る人があまりなかったので、申し訳ないような気持ちになり、ある時お返しのつもりで他の患者さんの車椅子を押してあげた。ところが、それを見た人たちが、「日雇い労働者が、お礼の金目当てで車椅子を押してる」と噂してるのが、本人の耳に入った。その人は、誇りを傷つけられ、「こんな思いをするぐらいなら」と病院を出てしまった。
そういう話です。他にも、救急隊員や病院から上記のようなひどい扱いを受けるのが嫌で、救急車を呼ばれるのを嫌がる野宿の人や、当時大阪南港に作られた「強制収容所」と呼ばれるほど環境のひどかった宿泊施設に入ることを拒む労働者たちの話が出てきました。


注記:この南港に作られた施設というのは、毎年「越冬」の時期に南港に作られる「りんぱく」と呼ばれる臨時宿泊所のことで、これは今でも毎年作られてるとのこと。ただ、この話の当時は、とくに中の環境がひどかったため、上のように呼ばれた。


もうひとつのエピソードは、スライドの最初に、壁際に飾られた花の写真が出てくるのですが、それはその場所である労働者の方が亡くなられたのを弔う花だそうです。小柳さんは、そこに行くと、その亡くなった人たちの記憶が残っている場所が、釜ヶ崎の町にはたくさんあるのだとおっしゃっていて、「場所は記憶している」という言葉を何度も口にされていたのが、心に残りました。


感想

最後に、スライドを見せていただき、お話をうかがっての、ぼくの感想を書いておきます。


70年代の釜ヶ崎の様子を聞かせてもらって、この町の人たちが、景気が比較的よくて雇用が安定していた時期や、今よりは「福祉国家」が健在だったと思われる時代においてさえ、「国民」一般とは隔絶した、最低限の生きる権利も認められないような扱いを行政などから受けていたことが、分かったと思います。
また、この地域の労働者の人たちや、それを支援する人たち(組合やキリスト教の関係者など)が、警察による強権的な治安取締りの対象になってきた歴史も知ることが出来ました。
小柳さんは、とくに行政のあり方に関して「日本中が釜ヶ崎化している」という表現を使っておられましたが、これは治安対策の面でも、そのようにいえるのかもしれません。


今の社会では、これまでは大方の人に形式上は保障されてきた生きる権利のようなものが、行政や制度によって守られないようになってきている。「新自由主義」とか「格差社会」という言葉で呼ばれるように、ひとことで言うと、国や制度から見て「生き続けなくてもかまわない」とみなされる人たちの存在が、釜ヶ崎のような特定の地区ではなく、日本全体に拡散してきている、ということじゃないかと思います。
上にでてきた「全国の寄せ場化」という言葉は、この状況をよく示している気がします。
今はフリーターや派遣などの非正規雇用をはじめとした(多くの正規雇用者も基本的にはそんなに変わらないでしょうが)一般の労働者の多くが、生き続けるために必要な保障や権利を失いつつある。そう言えるんじゃないでしょうか。


そして、この人たちは、住むところも失い、安定した社会の仕組み(会社とか家庭とか)からも外れているので、社会の治安を保とうとする側にとっては、監視し取り締まらねばならない危険な対象のように映る。いわば、「流民化」が社会全体に広がってるので、強力な治安対策も社会全体に拡大する。
これは、日本だけじゃなくて、いま多くの国や地域で起きている現象でもあると思います。


ぼくは今回、釜ヶ崎の町を少し歩いてみて、この町には普段自分たちが暮らしている町にはなくなってしまったような何かが存在しているように感じました。
それは、ひとくちで言うと、人間が「生きもの」であること、人間の「生きもの性」のようなものが露呈している町である、という感じです。


この町には、何かそういう基本的なことを思い出させるようなものがあって、そういう「生」そのものにおいて個々の価値が肯定されるような(それは、福祉とか人権とかとは、やや違うものかもしれないけど)社会のあり方が、ほんとうはぼくたちにとって何よりも大事なのだと思うし、管理する側は、やっぱりそれを潰そうとするのではないか。
一番(身体に近いという意味で)低い、暖かい、やわらかい、そういうものが目をつけられて圧迫されていく。
でもそれは、そうしたものが、ぼくたちがよりよく生きるうえにおいて、一番本質的なものであることの証でもあるんだろうと思います。