ボクシングなど

金曜の深夜に「深夜食堂」という単発のドラマシリーズをやっていて(次週が最終回らしい)、今日もちょっと見た。
今日は、りりィ(小泉今日子主演の映画『グーグーだって猫である』にも出ていた)が、元ストリッパーの老女の役でゲスト出演していて、その芝居を見てるだけでたいへんな値打ちのあるようなドラマだった。
このシリーズは、ときどき山下敦弘(『リンダリンダリンダ』など)が監督をしてるのだが、今回も山下監督の作品だった。


それで、それを見ていて、内容にあまり関係ないのだが思ったこと。
このドラマシリーズは、昭和的な雰囲気を特徴にしてるようだが、昭和のある時期、ということは1970年代前半ぐらいまでは、ボクシングの好きな作家・芸術家とか哲学者が多かった。
サルトルヘミングウェイもそうだし、三島、寺山、若い頃の大江にしても、みなボクシングを題材にしていた。
たとえば寺山の有名な、『マッチ擦る つかのまの海に霧深し 身捨つるほどの祖国はありや』という短歌も、ボクシングに関係する長編詩のなかに出てくるものである。
それが80年代頃から、それに代わってプロレス好きを公言する人が(村松友視を嚆矢として?)多くなったと思う。
これは結構、大きな変化じゃないかなあ*1


ひとつ思うのは、ボクシングというのは、やはり「行動」とか、実存主義的なものと相性がいいということだ。
サルトルの文章なんて、まったくボクシング的(ジャズ的でもあるけど)な気がする。
ボクシングとジャズが重なるという感覚も、いまは無くなってしまった感じだけど。


色々書きたいけど、夜も遅いので今日はこれだけ。

*1:プロレスが駄目とか嫌いということではない