みなさんへ

今回、lmnopqrstuさんはじめみなさんから寄せられた批判、ご意見を読ませていただき、また自分なりに考えを展開してみた結果、自分自身について気づくところがありました。


とくに強く反省した点は、自分がこれまで他者と本当に対等な場に立ち、生きた関係を築くための努力を怠ってきたのではないか、ということです。
この「他者」のなかには、これまで生きて関わってきたあらゆる人が含まれますが、とりわけ今回の出来事に関連して言えば、さまざまな意味での社会的少数者など、自分自身が抑圧している人たちとの関係を築くにあたっては、とくにこのことが肝要であろうと思います*1
自分が無自覚に有している暴力性や権力性を真摯に見つめることを通して、相手と対等な存在として向き合おうと努力する姿勢を、口先だけではなく示すことが、これらの人たちからの信頼や理解を得るための唯一の道であり、またそうした努力こそが「倫理」や「人間」といった言葉を意味あるものとして語るための真の条件であろうと考えます*2
個人的には、自分はこれまでの人生で、そのような努力を怠り、暴力や権力の無自覚な枠組みを通してのみ、目の前の人に接するというところがあった。これが、他人に対しても、また自分の生に対しても、大きなものを損なう結果を引き起こしてきたのだとも思います。


いまは、このような自分自身についての考えを発端として、自分がこれまでそのなかで無自覚であった暴力性や権力性について見つめ直すことからはじめたいと思っています。
また、そこから最近の自分のここでの記事や、みなさんからの批判と応答のなかで話題となった「倫理」や「責任」、「歴史」、また日本の過去から現在に及ぶ「植民地主義」ということについても、可能な限り考えを深めて、意味のある言葉によって文章を紡ぎ、皆さんの前にあらためて提示したいとも思っています。
これらの事柄は、「無自覚な暴力性や権力性」というものと、決して無縁であるはずがないからです。
それが完成した時には、あらためて、幅広い皆さんからの、厳しいご批判やご意見がいただければ幸いです。


そのような一定の整理がつくまで、このブログの更新や応答も、これまでより滞ることが多くなるかと思いますが、今後もどうぞよろしくお願いします。

*1:そして、それを通して、全ての人との関係を見つめ直すことが出来るはずです。

*2:lmnopqrstuさんも引いておられた『千のプラトー』のなかでドゥルーズ=ガタリは、動物の「群れ」のなかの「例外的個体」、「変則者」との「同盟」を結ぶことで、個体が生成変化する可能性について語り、また「マジョリティから離脱する運動」と「(マジョリティとの関係において規定される集合としての)マイノリティから抜け出す運動」との「同盟のブロック」について書いていました(「10 強度になること、動物になること、知覚しえぬものになること・・・・」)。しかしそうしたことのためには、抑圧する立場にある者自身が、自らを権力の立場から引き離して変容の場のなかに置く努力をなす必要があることは言うまでもありません。