今度の勉強会では

メゾン・ド・ヒミコ』についてかんがえる必要が生じた、とさっき書いたが、これはじつは近く仲間うちの勉強会件読書会みたいな場で、この映画を題材に少し話をしてみたいと考えているのだ。
その時には、これ以外に二つの短いテキストを読むことになっている。その二つというのは、いずれも『前夜』という雑誌の創刊号(2004年秋)に載ったもので、「国家・人種・文化−−三つの壁と闘う」(ミヒ=ナタリー・ルモワンヌ、菊池恵介・訳)と、「植民地主義フェミニズム」(宋連玉)。どちらも、たいへん示唆に富む内容だ。
とくに、前者の講演記録の語り手であるミヒ=ナタリー・ルモワンヌさんというのは、韓国生まれで、同国の政府による国際養子縁組政策によって二歳のときにベルギー人の両親のもとに養子に出され、ヨーロッパで育った美術家である。アートをとおして、韓国の政策や社会のあり方、とくに国籍法などを批判するという社会的な活動をやっておられる。
ぼくは、この記事を読む前に、たまたま彼女の作品を見る機会があり、強い刺激を受けた。その作品は、見るものの属性と自分自身との関係を問い直させ、混乱させる力に満ちていたと思う。また、ぼく自身は、「遺棄された」という事柄を出発点にして自分の同一性や社会的属性についてかんがえる可能性を教えられたように感じた。


今日、これらの文を読み返そうと思って、この雑誌を見ていたら、ガッサン・カナファーニーの『ガザからの手紙』という作品の翻訳に付された、訳者の岡真理という人の文章を読みながら、また色んなことを思い出してすっかり参ってしまった。


追記

私たち韓国養子は、母国の高度経済成長がもたらした、いわば「産業廃棄物」なのです。(ミヒ=ナタリー・ルモワンヌ)

よって帝国日本の家父長制と韓国の家父長制の重層的構造を問わずに、両者を同罪に扱うという陥穽に陥りやすいのである。韓国の家父長制は南北分断や韓国の米軍基地化、あるいは東アジアにおける近現代の関係を問うことなく、けっして独立してあるのではない。(宋連玉)