パーリアとは誰か

先日紹介した齎藤純一著『公共性』という本のなかに、「表象の暴力」という言葉が出てきた。
「表象」というのは、ぼくにはすごく分かりにくい言葉だが、それについては、次のように書いてある。

「表象」とは, 他者の行為や言論を「何」という位相, すなわち他の人々と共約可能な位相, 入れ替え可能な位相に還元する眼差しのことである. 表象の眼差しで見られるかぎり, 私は, 他者の前に「現われる」ことはできない. 表象が支配的であるその程度に応じて「現われ」の可能性は封じられるのである. (p40)


やっぱり難しいが、「何」とか「現われ」とか書いてあるのは、アーレントが使っている特殊な言葉の訳語らしい。
他人を、入れ替え可能な役割や属性において見出す、それが「表象」ということのようだ。つまり、「日本人」であるとか、「老人」であるとか、「女性」であるとか。
これは結局、相手の人(命)を「物」として、「対象」としてみてしまうことだろう。
それは人の心身を傷つける暴力の源泉ともなる眼差しだが、生きているうえで、人は他人を「表象」をもって見出さないわけにはいかない。
その人の存在を、入れ替え可能な一種の「物」として見出してしまうことは、この世に生きている以上避けがたいことなのだ。
その事情は、次のように書かれている。

しかし, 私たちは, そうした表象の暴力の幾分かはつねに生きてしまっている. というのも, 私たちは, 私たちが出会う他者をつねに何らかの仕方で表象しており, この「表象の空間」の外に完全に抜けでることはできないからである. 「現われの空間」が可能だとしても, それは「表象の空間」の彼方に存在するわけではない. (p41)


これは、カント的な認識ということになるんだろうが、そのとおりだと思う。


他人と比較できるものではない、その人自身、また自分自身の存在というか、命そのものみたいなものを感じとる、触れるということは、すごく難しいことであると思う。
言い換えれば、人はどうしても、他人を「対象」としてみてしまう。そして、自分の存在もまた、他人にとっての「対象」としてしかみられないのが普通だ。
固有の命にかかわるような存在のレベルがあるとすると、その上に薄皮のように「表象」の膜がかかっている、というのが、ぼくたちが現実を生きている状態なのだろう。
この膜をとおしてしか、他人に出会えないような生を、ぼくたちは普段生きているわけだ。


アーレントが「現われ」と読んでいるのは、この膜の向こう側にあるような「命」のレベルで見出される他人の存在ということだろう。
つまり、「表象の空間」でない場所に現われる他人。


これをどうかんがえるべきか、はっきり分からない。
でも、たとえば。
人が生きているということには、それぞれの限界(リミット)というものがある。これは、条件といいかえてもいいかもしれない。物理的なのか心理的なのか、とにかく一定の枠みたいなものがあって、みんなそれぞれのリミットの中で生きている。
その意味では、人間である限りすべて条件が同じだともいえる。つまり、誰でも自分固有の条件(限界)のなかで生きるしかない、という意味で。
その人に固有のその条件において、どういうふうに生きたか、どれだけ誠実であったか、というようなことが本当は重要だ。
他人と比較して、どれだけ頑張ったか、どういう結果がでたか、というのは、表象の次元の問題にすぎないので、本当は重要でない。
実際には、このレベルで他人の生きていることを見つめ、肯定することは、社会全体としても個人としても容易くないが(どんな偉い人やリベラルな人でも、自他が「頑張ったかどうか」みたいなことを、どうしても他人との比較で、つまり一般的に考えてしまうものだ)。


そして、その人がその人自身の生を生きていれば、それは必然的に、他人の生に影響を及ぼすものであると、ぼくは思う。
この意味での他人との関係が、本当の社会性と呼べるものであり、それがアーレントのいう「現われの空間」(公共空間)ではないだろうか。


その人が、その人自身の生を生きるということが本当は大切なわけだが、それを可能にするのは、そうした次元(表象的でない次元)において他人の生を見出すことができるかどうかという、われわれ(他人でないもの)の側の視線なのだ。それが、他人の生を肯定する、ということだろう。
われわれが他人に、そういう表象的でない眼差しを向けることができなければ、目の前の友達も肉親も、「見棄てられた者」(パーリア)として生きて死んでいく他はないのである。
パーリアとは、特定の属性や条件をもつ人々の呼び名ではない。


また、そういう眼差しで周囲の人たちを見ることを心がけるようにしないと、他人の命に触れられないというだけではなく、自分が存在していることの意味というか、自分というものの存在のかたちも分からないままに人生を終えてしまうことになるだろう。
これは、あまりにも寂しいことだ。
自分がこの世の中に生きていることの手触りは、しっかりつかんで生きていきたい。
それを可能にしてくれるのもまた、周囲の人々との関わり、表象的でない眼差しと影響の交換、つまり本当の意味での社会性なのだと思う。