怨恨とポストモダンとサヨナラスリーラン

土曜日は久しぶりに、友人とプロ野球を見に行った。
甲子園の阪神オリックスの試合。甲子園でプロ野球を見るのは、10数年ぶりかもしれん。誘ってくれた友人が阪神ファンということで、ぼくも阪神を応援する。じつは普段、大阪ドームで試合を見るときはバファローズ(オリックス)を応援するのだが、別になんの抵抗もなく、この日は阪神を応援した。
一方を応援すると、相手のチームがエラーをしたりすると喜んだり、なんとなく反感をもってしまうのは、窮屈な感じだ。なんて了見が狭いのかと自分でも思うが、そうならないと面白くないのも事実で、まあ度を越さなければいいんだろう。
この日も、普段は応援している中村紀洋(オリックス)が逆転ホームランを打ったのだが、阪神を応援してたので、全然嬉しくなかった。


これは、なんでこう抵抗なくスイッチできるのかと考えてみると、ひとつには競馬が好きだからかもしれない。競馬では、行くたび(買うたび)に応援する馬や騎手が変わるのは、当たり前のことである。皐月賞では「ユタカ、来てくれー」と叫んだ人が、ダービーの時には「ユタカ、来るなー、ボケーッ」と絶叫してたりする。どのレースでも1頭の馬を応援するということはあるかもしれないが、応援することと買うということとは本来別のことで、その二重性、つまり自分自身のいい加減さをつねに意識できるところに競馬(というか、ギャンブルとして成り立っている競技)の特徴があるともいえる。この自分自身のいい加減さが意識できない分だけ、ギャンブルでないスポーツは、ぼくにはどこか居心地の悪いところがあるのである。
プロ野球は、とくに世間の注目度が低い、というよりぼく自身の関心が低いパリーグのあまり馴染みのない球団の試合とかは、こうしたいい加減さが、ある程度許される気がするので、それはそれで好感をもっている。


だがこう書くと、えらく「ポストモダン」な観戦の仕方をしてると思われそうだが、そういうことでもなく、ともかく巨人が嫌いである。よく、「アンチ巨人も巨人ファンだ」、つまり「アンチ巨人こそが巨人人気を支えている」みたいな言われ方をするが、あれもやっぱり嘘で、「巨人が嫌い」という心理には、「アンチ巨人」というレトリックの形式には回収されないなにかポジティブなもの、つまり差異を産出する要素がある気がする。だから、「アンチ巨人なんて無意味だ」とか「ネガティブだ」というポストモダン的な言説は、眉につばをつけて聞いたほうがいい。
「巨人が嫌い」というのは、ぼく個人の一種の怨恨である。そして、先日も書いたように、怨恨は、いい。怨恨万歳。怨恨さん、いらっしゃい。
そこから産み出される「強度」というものが、やはりあるのだ。


阪神については、田淵が居た頃までの阪神は、その巨人を対象として、明らかに特権的なチームだった。それは、「巨人以外のチーム」のなかのワン・ノブ・ゼムではなかった。それはあらゆる相対的な差異の陥穽を叩き潰す、「力」を帯びていたのだ。そういう「アンチ」の暴力的なまでの具体性を隠蔽してしまったのが、70年代後半以後の日本の社会だったのではないかと思う。
要するに、ぼくはスポーツにおける多文化主義みたいなものが大嫌いなのだ。もちろん、文化の抑圧はもっと嫌いだが。スポーツも文化も、本来は「力」であるべきじゃないのか。
ただし、その「力」のなかに、上に書いた関心の薄い試合を「のんびり」見られる楽しさ、みたいなものもある。「熱い」ことも「ドライである」ことも、「力」にもなれば「抑圧」にもなりうるのだから、ややこしい。


話を戻すと、この日は金本の同点ホームランで追いついた阪神が、延長戦に入ってシーツのスリーランホームランでサヨナラ勝ちした。面白い試合で、おまけに勝って、よかったよかった。
というか、オリックスは負けてるんだけど。まあ、そっちのことは大阪ドームに行ったとき考えよう。