落合の「切断」

やっぱり日本シリーズ第5戦、パーフェクトピッチングの山井を八回で降ろした落合の采配が物議をかもしてる。
ぼくも見ててがっかりはしたし、批判的な意見の方が多いだろうことは予想がつく。
でも、そこでひとつだけ押さえておくべきだと思うことがある。
それは、あの落合の選択を非難する人は、贔屓チームが「勝利」したり「優勝」したりすることにこだわってはいけない、ということだ*1


日本シリーズをずっと見てきた人なら、あそこでピッチャーを変えるか変えないかが、シリーズの結果を左右することになりうるというのは、認めざるをえないはずだ。
とにかく一点差だからね。「どうしてもこの試合を勝たねば」と思ったら、監督がリリーフエースに交代させることには、別に不思議はない。
これに反対し、この采配を批判する理由としては、ふたつ考えられる。


ひとつは、「山井が気の毒だ」というもの。
これは、ぼくもそう思う。もし自分の意に反して変えられたということなら、山井は落合を恨んでいい。
恨まなくてもいい。
ようするに、本人がどう考えるかの問題だ。


もうひとつは、「すごい場面が見たい」というファン心理や、報道する側の期待の心理。
もちろんプロスポーツだからこれも軽視はできない。
あの場面に不服な人は、中日やプロ野球のファンをやめたってかまわないし、実際そうする人もいるだろう。だとすると、ファンが減ることになるので、営業上はこれはまずい。その意味では、あの采配は「プロ意識に欠ける」という批判も成り立つかもしれない。
ただ、そんな「すごい場面」を見られなくてもいいから、中日の勝利、そして日本一が見たいというファンも居ただろう。その人たちの期待には、落合の采配は立派にこたえたのだといえる。


「ファンの期待にこたえる」ということを基準にして考えると、問題は、「すごい場面を見る」ということと、「勝利や優勝の喜びを得る」ということとが両立しない場合がありうるということだ。あのケースは、それに該当する可能性があった。
あくまで一般論だけど、何かを得るために別の何かを犠牲にしなければいけない場合がある。
あの交代の場面は、「両方をとる」ということは不可能だったと思う。
落合は、「勝つために、より確実と思われる道」を選択し、「完全試合達成」の可能性を捨てた。
その選択が、好いか悪いか分からないが、落合には「選択しなければいけない」という状況があり、そこで現実に選択した。選択する行為そのものを批判することはできないから、批判するとすれば、「そうじゃない方を選択するべきだった」という言い方しかできないはず。ということは、その批判をする人は、「勝利」や「優勝」を強く望まないという選択を現実にしてるわけである。
そうでないんなら、落合への批判は、「批判」の名に値しない、ただの「たわ言」になる。「対等な立場で批判する」というのは、そういうことだと思う。


まあ、それはそれとして、あの選択は、ほんとにすごいものだったという気が、考えてるうちに段々してきた。
一点差のあの場面で、もし岩瀬が打たれて逆転負けしてたらどうなったか。日本ハムの逆転優勝への道が開かれただけじゃなく、落合へのバッシングは、こんなものではなかっただろう。
いや、結果に関係なく、あの場面で山井を代えるなんて決断は、ぼくには絶対にできん。
そこを「切断」してしまった落合を、いまは本当にすごいと思う。
実はあの瞬間、ぼくは、落合が「自ら地獄に落ちた」と思った。自分で自分を地獄に突き落とすこと、自分がある意味で悪魔と同様の存在(山井や多くの野球ファンにとって)になることで、代償に勝利を得た。
オーバーだけど、そういうふうに感じたのだ。


だが、じつはこの感じ方も、ちょっと違うと思う。
落合は、「勝利」(優勝)を得るために、何か(誰か)を犠牲にする決断をしたわけじゃないだろう。あえて「犠牲」にしたというなら、それは落合本人を、ということになるが、そういうことでもない。
彼はただ、勝負を争う試合(ゲーム)の流れに沿って、なすべき決断をしたのだ。「非情に」とかいうことではなく、ただ淡々と。勝利は、その結果として、たまたまもたらされたに過ぎないのだ。
それが、彼が自分自身を「地獄に落とした」(切断した)ということの意味である。
ともかく、ありふれているのだが、すごく怖ろしいものを見た、という感じのするゲームだった。

*1:試合後の番組では、あの交代は指の豆をつぶした山井が自ら申し出たものだという意味のことを、落合は言ってたけど、ここではそれは考慮せずに、あの場面について考えてみる