「大したもんだ」と思わせる人たち

ちょうどきのうから大リーグの開幕戦を日本でやってるが、来日前にこんな出来事があったことが報道されていた。

http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/baseball/news/CK2008032002096793.html


ぼくはアメリカのプロスポーツに対しては反感のようなものがあり、とくに大リーグの試合もマクガイアがホームラン記録を作ったぐらいから関心が持てなくなって、中継やダイジェストを放送していても、滅多に見ることがない。
ただ、ひとつ感心するのは、ときおり決然としてストライキをやったりすることである。
年俸が(日本円で)何億円ももらってるような人たちが、団結して、経営者ばかりか、ときにはファンや世論全体をも敵に回す覚悟でストをやるのである。
あれは、ほんとうにすごいと思う。
それは、自分たちの名誉や権利のために「闘う」という姿勢を、社会の全体に対して、とりわけ野球ファンの子どもたちに対して、示すことになるからである。
「大金を稼いでる人たちのエゴ」という風な批判(それ自体は、当たってるかもしれない)は、どうでもよい。
「エゴ」と言われても、自分たちが大切に思うものを守るために、組織や社会全体を敵に回すようなリスクを背負って闘うことを辞さないその姿勢が、グラウンド上でのプレイ以上に、ファンの子どもたちや大人たちの心に何かを残す。
そういう気概のようなものを、それはやってる本人たちがどこまで意識してるかは分からないが、ぼくは感じるのだ。


この記事にあるトラブルの場合、選手たちは、自分たちよりもはるかに年収の低い人たちを含むコーチやスタッフが、遠征に関して不平等な扱いを受けてることに怒って、団結して実力行使に及んだのである。
ある番組で、そういうレッドソックスのスタッフの一人が紹介されてたが、バットやベースなどを運ぶ係りの人で、なんと言ったらいいか、学校の用務員さんみたいな感じの人であった。
年収3万ドル前後しかない、それらの人たち、自分たち(大リーガー)がかけがえのない仲間であると感じている人たちのために団結して決然と行動する。
その精神は、ほんとうにたいしたものだと思う。
どんなに高い年俸を得ていても、仲間の生活や名誉のためには、大リーガーたちはリスクを恐れないのである。


日本でのこの出来事の報道はというと、概ね酔狂なトラブルとか、「椿事」という扱いだった。
松阪や大リーグのプレイが日本で見られるかどうかという、目先の関心が全てで、こういう行為の持っている精神的な意味というものには、あまり関心がないのだろう。
先年、日本でプロ野球選手会のストが決行されたときには、多くのファンが支持を表明したが、社会全体やファンの「世論」を敵に回すリスクがあっても仲間のために団結して闘う、という態度を評価するような土壌は、日本の社会にはないのではないかと思う。


大リーガーたちの主張や認識が、客観的に見て「正しい」ものかどうかという皮相な観点よりも、はるかに大事なものがある。
それは、人は他の人のために、社会全体を敵に回しても闘うことが、またその闘いのために少数であっても団結することがあるのだという事実そのものを提示するということである。
その根底的なメッセージに比べれば、言っていることが「エゴ」や「認識不足」であるかどうか、矛盾してるかどうかは、二次的な問題にすぎないのだ。


話は変わるが、先日橋下大阪府知事との対話で、知事に食ってかかった女性職員の態度は、まったく立派なものだったと思う。
そして、その態度を「彼女は偉いと思う」と率直に認めた府知事も、やはり「見どころのある人」なのである。
そういう勇気ある個人と個人との出会いと対決が、もっと社会のなかに露呈していくようでなければいけない。
そして何より、自分の考えや思いを勇気を出して表明していく人たちの態度そのものへの尊敬と支持を、その発言内容への賛否や反応などに優先させるような、人として当たり前の態度を、われわれは謙虚に持つべきなのである。