きのう書いたことや、他者をめぐる話

きのうは、めずらしくやや私的なことを書いたが、最近書いている内容との関連で、少し自分の現在に関することも書いておきたかったのである。
ぼくの場合、これといったスタンスやフィールドがあってブログを書いているわけではなく、いきあたりばったりという感があるので、自分の位置をたしかめるために、ときどき「ベタ」なところにフィードバックしないといけない。そういうことを書くのはすごく苦手なのだが、仕方がないのである。
きのう書いたことで、「現在の仕組みに従わざるをえない人もいる」云々というところは、自分のことではなく、一般論として読んでもらいたい。そういう苦渋の思いを抱いている方もきっとおられるだろうということで、ぼく自身はそれほど葛藤しているわけでは(葛藤があることを感じるべきなのだろうが)ない。


ところで、最近、以前ここにも紹介を書いた(書いたことを自分でも忘れてたのだが)李静和の『求めの政治学』という本のことが気になっている。ぼくの紹介文は、なんだかよくわからない文章だが、いくつか大事なところは引用してあるようだ。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20060417/p1


「想像力」に対する疑いとか、「内なるサバルタン」が膨らんでいくことへの危惧とか、この本に書いてあったんだよなあ。
前者については、李静和の発言を受けて対談相手の鵜飼哲が「上空飛行的な想像力」という言葉を用い、それを行使することはマジョリティにとっては難しいことではない、というふうに述べていて、これはうまい表現だと思った。
後者については、人々が「サバルタン」という(他者の)存在を意識するようになったことによって、言葉を持つ者(想像する者)が自分自身のなかに抑圧された自分の部分(サバルタン)のようなものを思い描くようになってしまい、それによって本当の他者を消し去ってしまう、他者が存在する余地を除去してしまっている、というような話ではないかと思う。
これは、このところ、自分の書いていることにそういう面があるように思うので、たいへん反省させられる話である。「本当の自分は抑圧されている」という言い方は、どこかで他者(他人)を消してしまう(何かを奪い取り、押さえ込んでしまう)危険があるのではないか。


それに関連して、まだ読んでいる文庫版『アンチ・オイディプス』の一節。

したがって、物事を解釈する場合のように、抑圧を通じて、またその抑圧の中に、抑圧されているものを読むことは、決してできない。なぜなら抑圧は、自分が抑圧するものの偽のイメージをたえず誘導するからである。(下巻 p228)


つまり、まったく異なる回路が、ここには必要だということだろう。


求めの政治学―言葉・這い舞う島

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アンチ・オイディプス(下)資本主義と分裂症 (河出文庫)

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