酒井隆史『自由論』をとりあえず読んだ

「真紀さんこれからずーっとそういう本読むとしてさ、あと三十年とか四十年くらい読むとしてさ――、本当にいまの調子で読んでったとしたら、けっこうすごい量を読むことになるんだろうけど、いくら読んでも感想文も何も残さずに真紀さんの頭の中だけに保存されていって、それで、死んで焼かれて灰になって、おしまい――っていうわけだ」
「だって、読むってそういうことでしょ」
(保坂和志「この人の閾」より  新潮文庫)


自由論―現在性の系譜学

自由論―現在性の系譜学


泣きたくなるほど誤植が多いのが難点だが、ともかくすごい本だとは思う。
何より、今なら何に危機感をもって考えているのかがよく分かり、「そうだ、そうだ」とか、「そうだったのか!」といった感じになるが、これらの論考が書かれた90年代の後半にこういう問題意識を持っている人は、ことにアカデミズムの分野ではそんなにいなかったんじゃないだろうか。
それを考えると、この著者はやはりすごい人だ。最近読んだ『暴力の哲学』や渋谷望の『魂の労働』に先行して、こういう実践的だが総合的な本が出ていたことを知り驚いた。


内容については、これから読み直したりして、何度も紹介したり参照したりすると思うが、いま思いつくことを二点だけ。
まあ、書評というより雑感です。


① まず、ぼくがこの本を読み始めたときに関心があったのは、「小泉改革」に対する支持とか、IT関連での起業とかいうことの底にあるエートスというのか心情やエネルギーみたいなものと、それに対立し抵抗するような「運動」の底にある情動みたいなものとが、ネガティブな意味ではなく、どこかで重なり合っているのではないか、ということだった。つまり、ネオリベ的なものと反ネオリベ的なものとはどこかで重なってる気がするが、それをネガティブな論理によるのでなく解き明かせないか、ということ。
「新しい権力地図が生まれるとき」と題された本書の序章は、その疑問に対するひとつのヒントをあたえてくれる。
ひとつには、<運動>と固有名詞で呼ばれる70年代のイタリアの社会運動のあり方と、その後のポストフォーディズム的な資本と権力の変容を検証して、ポストフォーディズムの資本の要請、つまり労働力のフレキシビリティとか、アントンプレナーシップ、「社会化されたワーカー」といった新しい労働(者)のスタイル(倫理)みたいなものは、もともと社会運動の側の主張や成果として出てきたものを、いわば資本の側が換骨奪胎して乗っ取ったのだ、という見方が示されている。

『現代は、敵が運動の担い手であるという意味でも<運動>以降なのだ。(p22)』


『<運動>のなかでオルタナティブな意義をはらんでいた要素を、資本が活用したということでもある。(p44)』


これについては、『ポストフォーディズムの資本主義における解放的ポテンシャル』という明快な表現が使われ、アウトノミア運動のスローガンだった「自己価値化」の運動を『丸ごと組入れている』「寄生的」な現代の資本のあり方が批判されている。
このへんはたいへん面白かった。


またそれに関連するが、ポストフォーディズムの社会では、媒介的なもの、つまり<社会的なもの>が用済みとされ、「市民社会」が衰退しているというのはよく言われることだが、いったいその何が問題なのか、ということ。つまり、国民国家みたいな意味での<社会的なもの>をネオリベラリズムに抗して擁護するというスタンスでいいのか、という疑問があった。これについても、この序章の文章は明快に答えていて、それは次の一節によく示されていると思う。

ネグリたちによるレギュラシオン派への批判は、おそらくレギュラシオン派が同じ問題を同じ方向で提起しながら――つまりアフター・フォーディズム的状況それ自体はポジティブに受けとめながら、ポスト・フォーディズムの社会編成を左へと向けるという――、その問題提起を最初から「妥協」(より一般的には「媒介」)というタームで編成していることにたいして向けられているように思われる。ネグリの観点からいうなら、レギュラシオン派は政体=構成の存在をアプリオリに前提しているということになるだろう。(p53)


つまり、ポストフォーディズム社会において「媒介」の領域、<社会的なもの>が消し去られることの何が問題かというと、そのことによって「コンフリクトの場が排除される」ということであって、社会的な調整のシステムとしての「妥協」や「交渉」「調停」の場それ自体に守るべき価値があるということではない。
極端にいえば、そういうことだろう。コンフリクトこそが重要だ。酒井はそう言っているのである。


②本書の後半では、監視テクノロジーや「警察の軍事化」といった、非常に現在的な問題が扱われている。
そのなかでも、ゲーテッド・コミュニティについての詳細な紹介と分析は目を引く。
ぼくはたとえば、次のようなところに関心をもった。それは、こうした閉鎖的なコミュニティが、ある種の「シミュラークルな」民主主義を希求し実現する空間でもある、という指摘である。

マクラフリンらが言うように、要塞コミュニティは、現代社会の「ルーツレス」状況に対するコミュニタリアン的、あるいはもっと一般化すれば、かつての市民のヘゲモニーによる「都市的なもの」の構築や参加型民主主義実現といったヴィジョンを肯定的に満たすものである(p280)


この閉鎖された、あるいはヴァーチャルな空間における民主主義の実現(シミュラークルとしての)というテーマは、すごく思い当たるふしがある。それは「偽物の民主主義」ということではなく、民主主義のある本質(限界)を示しているものかもしれない。
閉鎖的・排除的なゲーテッド・コミュニティは、民主主義の夢にとっての、正真正銘のユートピアかもしれないのだ。