森達也『こころをさなき世界のために』

ファルージャで死んだイラク人の数と米兵の数とを、もう一度比較してみてください。これはもう戦争ですらない。これほどの不均等は戦争とは呼ばない。虐殺です。世界がこれほどに不感症になってしまった理由は、逆説のようだけど、メディアが発達したからです。(p92)


本書で森達也は、「一人称」にこだわることが重要だと言っている。現代の社会では、人は「私は」「ぼくは」といった一人称を使わなくなりつつあることに大きな危惧を表明しているのである。
一人称の欠落は、情報を簡略化して伝えるものとしてのメディアの特徴とさえいえるものであるとも言われる。

初期症状のひとつは、主語の第三者化です。その典型は被害者。被害者を聖域に置くことで、いつのまにか被害者が主語になる。だから述語は自分の感情ではなくて、被害者の痛苦や怒りを代弁する。次の段階では、主語が複数名詞になる。例としては、「我々」とか「国家」です。でも本人は、自分の主語がいつのまにか変わっていることに気づかない。だから述語は暴走します。(中略)よく考えたら主体がどこにもない。(p13)


考えたり感じたりする主体という意味での主語が失われ、誰もがメディアの視点や国家や組織の視点と同一化してしまうような思考のあり方、世界へのまなざし、そういうものに抗うために、森達也は、「一人称」での語りにこだわり、またたんに情報を簡略化して伝えるものではない、「表現」としてのメディアというものに強くこだわろうとするのだ。

その偽りの「事実」と「真実」の隙間で、多くの人の無数の世界が忘れられていくという事態が生じるわけです。この事態に抗するものは、客観的な事実ではなく、主観的な表現なのだと僕は思っています。(p36)


それは、「ためらい」や「逡巡」、「葛藤」といった「曖昧な領域」を切り捨てず、それを大事にしていくことで自分一個として世界との関係を切り開いていく、ということでもある。

(前略)内心の後ろめたさを失わずにいてほしい。
後ろめたさくらいでは何も変わらないと思われるかもしれないけれど、でも微妙に変わります。(p93)


人々が一人称を用いなくなり、メディアや国家・組織の視点と同一化してしまうときに生じる大きな問題は、そのことによって個の理性がはたらかなくなり、人々の心の底にある集合的な暴力性のようなものに歯止めが利かなくなる、ということである。
一人称を忘れ、国家やメディアに主語を委ねてしまうことによって生じる「思考停止」が、人間の秘められた集合的な本性ともいえるような、異質な存在を排除しようとする暴力性を噴出させてしまう。
森はそれについて、『純粋性の深部に潜む残虐な衝動』という言葉を使っているが、「述語の暴走」という事態が最終的にもたらすのは、その恐怖なのだ。
とくにインタビュー形式をとった本書の後半では、そこから「虐殺」という大きなテーマについて語られる。

外に向っては異なる共同体への秘めた憎悪の解放、内に向えば内部の異物に対する自己抑制の解除。そう言うと図式的になるけれど、敢えて言うと、虐殺にはそういう一面があるのかもしれません。だから、極端に言えば、どこかでカタルシスにつながるところがあるんじゃないでしょうか。(p163)

だから、僕は、戦争はきっと抑止できると信じているけれど、虐殺には対処しようがないところがあると思う。虐殺という現象は、もしかしたら人類が未来永劫にわたって抱えなければいけない、重いリスクじゃないかという気がする。(p164)


こうした傾斜に抗おうとする森の態度の根底にあるのは、社会全体の視点からは「絶対悪」とされるような人々と自分自身との共通項をとらえて、そこから出来事と世界をとらえていこうとする態度である。
「絶対悪」を(われわれの)社会の外部として想定する「純粋さ」への衝動こそ、「思考停止」と「虐殺」をもたらしかねない、もっともいまわしいものだと考えられているからだろう。

(前略)そうじゃなくて、ポストの状況の相似性と言いますか、オウム以降の日本のあり方と、アウシュビッツ以降の世界のあり方が、よく似ているという点でね。両方とも、一方的な断罪を迫って処刑する。要するに実相は不可視に追いやりながら、その絶対的な邪悪性だけを記憶しようとする。(p148)


親鸞が呼び出されるのは、この文脈においてである。
それは、集団的な純粋さへの願望、排除への意志に対して、一個のエゴとしての自分自身の不純さや曖昧さ、「ゆるさ」を決して手放さないという姿勢の表明なのである。