『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』

この春、どうしてもこの映画だけは見ておきたかった。
大きな特徴は、最後の1、2分というところに来てはじめて、主人公と監督の「目線」のようなものが明らかになるということで、登場人物とともに観る者を唖然とさせるこのエンディングが素晴らしい。そこまで感じていた不満、つまり主人公が死んだ友人との約束になぜあれだけ拘ったのかという理由がまったく説明されていないということも、けっして消え去ってしまうというわけではないのだが、まったく別の展望が開かれることになるのだ。実に不思議な作品である。


メキシコから不法入国してくる人たちが絶えない、テキサスの国境近くの小さな町が舞台。トミー・リー・ジョーンズの演じる主人公ピートは、不法入国者であるメルキアデスという男と知り合い、自分の牧場のようなところで職を与える。このピートは、スペイン語がかなり話せるという設定だったが、その理由も分からない。ともかく、言葉ができるということがあって、この二人は親友になっていくのだ。
ところが、最近この町にやってきたマイクという若い国境警備隊員に、ある偶然からメルキアデスは射殺されてしまう。警察や警備隊は、このことをうやむやにしようとするが、ピートはやはり偶然からマイクが犯人であることを知って、狂気にとりつかれたような行動をとることになる。マイクの自宅を襲って拉致し、すでに埋葬されているメルキアデスの遺体を掘り起こさせた後、その遺体とマイクとを引き連れて、ひそかにメキシコ国境を馬で越えるのである。
その理由は、生前メルキアデスから、もし自分が死んだら故郷の村に埋葬してくれと頼まれたことだった。少なくとも、明示される理由はそれである。
つまりここでは、不法入国者たちとは反対に、死体を含めた三人の男たちは、「第一世界」から国境をひそかに越えて「第三世界」に入って行くのだ。やがてそこで明らかになることは、「第一世界」の側が「第三世界」に対して抱いている「幻想」のようなものだろう。
一方、この「第一世界」の内情がどんなものかは、マイクの妻との生活や、食堂の主人の妻でウエイトレスでもある女性の行動を通して描かれることになるのだが、この映画の特徴は、それをたんに否定的に描いているというわけではないということだ。むしろ、ピートとメルキアデスとの友情よりも、マイクの妻とこのウエイトレスの女性との友情の方が、肯定的に描かれていたと思う。これは、この作品の重要なメッセージだろう。
この、必ずしも否定していないという特徴は、上にあげた「第三世界」への「幻想」についてもあてはまる。
いずれにしても、この映画でもっとも空虚なのはピートという男なのだが、その空虚ささえ否定されることなく映画は終わる。というより、この作品は、何かを否定したり批判したりすることとは縁の薄い映画なのだ。


生きている人間たちと死体になって腐っていく男との境も曖昧であり、ピートにとっての正気と狂気の境も曖昧である。ピートは、すさまじいほどの狂気にとりつかれて、マイクを埋葬の現場へとひきずっていくが、その行動の根底にある意志は、「正義」や「報復」というような、世界の形と境目をはっきりさせて秩序づけようとするような意志ではない。そういう「男たちの意志」が、国境や「幻想」もろともすでにどうしようもなく崩壊していることを、この映画を作った人たちは知っているのだ。
そこが、たとえばイーストウッドの映画とは、はっきり違う。この映画の美学には、そういうストイシズムみたいなものが見事に欠落しているのだ。かわりにあるのは、一種の諦念と、狂気、そしておそらくこの世界への愛だろう。


メキシコに入ってから密林を見渡せるバーでピートが酒を飲む場面や、手錠をはめられたマイクがひまわりのような黄色い花のなかを逃走するシーンは素晴らしかった。
ピートが酒場から電話をかけるシーンというのは、『スケアクロウ』や『パリ、テキサス』を思い出す人が多いだろうが、ぼくはあのバックのピアノの音を聞いていて、大林宣彦の映画を思い出してしまった。


インターネットで読んだなかでは、こちらの方の感想がとてもいいと思った。
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