講演『米軍再編の実像』

30日の日曜日、映画『Marines Go Home 辺野古・梅香里・矢臼別』に関連して、「米軍再編の実像―辺野古と平澤をつなぐと」と題した講演会が、大阪の十三というところであり、聞きに行ってきました。
講師は都裕史(ト・ユサ)さんという方で、「米軍基地反対運動を通じて、沖縄と韓国民衆の連帯をめざす会」というところで活動をしておられる方だそうです。
以下は、報告というほどのものではなくて、とくに印象に残った点を自分なりにまとめて、メモ的に書いておきます。


はじめに平澤の状況ですが、現地に行ってこられた都裕史さんによると、耕作権が発生する可能性のある田植えの時期を目前にしてまた緊迫してきており、近日中に住民らの排除のため韓国軍が動員される可能性があるそうです。
もしそうなると、80年の光州事件以来はじめて、軍隊が民衆のまえに立ちふさがる、という事態になる。
では、以下本題です。

講演の内容

駐日米軍の大きな特徴は、同様に規模の大きい駐韓、駐独米軍と比較して、海兵隊が際立って多いということである。海兵隊は最前線に送られる部隊であり、安保条約にあるような「日本を守る」目的にそぐわないにもかかわらず。
とりわけ、沖縄の米軍は、そのほとんどが海兵隊である。


辺野古や沖縄の米軍の動きは、駐日米軍、駐韓米軍を含めた東アジアの米軍の再編の動きの一環としてみるべきであり、また全世界的な「米軍の21世紀戦略」のなかで見る必要がある。
「沖縄の負担削減のために」というのは、まったくの口実にほかならない。


そこから見ると、いま辺野古に米軍が基地を作ろうとしているのは、地政学的な理由よりも(すでに、沖縄は米軍にとってかつてのような地理的な重要性を持たないので)、それが日本の領土の一部であるということが、その理由だと思われる。
つまり、グアムに米軍の多くが移った後も、アメリカは大きな兵力を日本の領内に置きつづけたいのだ。


ブッシュ政権のもとで示された「米軍の21世紀戦略」とは、アメリカの資本主義を守るために、アメリカのいう「自由と民主主義」の体制のもとに全世界を編入することを目標としており、そのためには先制攻撃をも辞さない、というものだ。
具体的には、「テロとの戦争」と「対中国封じ込め」を主要な軸とする。


それは内容的には、①これまでの大規模駐屯から、機動部隊による迅速な対応へのシフト、②アメリカ自身の負担や犠牲をできるだけ減らし、それらを同盟国に肩代わりさせる、という二つの特徴を持っている。


ここでは特に②が重要。
犠牲を減らすということでは、駐韓米軍が38度線から離れていて北朝鮮のロケット弾などが届かない平澤まで下がったことや、沖縄から中国のミサイルが届かないグアムに海兵隊が移転することがあげられる。


同じく②に関して、同盟国のなかでも韓国と日本は、最大の在外米軍に対する協力国だといえる。とりわけ、経済的な支援では日本は際立っていて(「思いやり予算」)、米軍の海外駐留費用のなんと50%を日本がまかなっている。沖縄の場合、米軍自体が支払っている経費は給料ぐらいではないか?
重要なことは、これが現状では(日本の)「防衛のため」ではなく、「攻撃のため」の支援になっているということだ。


駐韓米軍の場合、日本とは異なり、住民から土地を韓国政府がとりあげて、それを米軍に供与するという形をとっている。いま平澤で起こっているのは、そういうことだ。


さらに同盟国の役割ということでいうと、米軍は今回の再編にあたって、自衛隊の存在を重視し、それを効率よく用いようとしている。本土の自衛隊基地を米軍が使用したり、沖縄の米軍基地を自衛隊が使うようになる(「施設の共同使用」)ということも、そのひとつである。


講演のメモは、以上です。
参考サイト
『日本の新たな軍事的野心』(ルモンド・ディプロマティーク)

ディスカッション

当日は、このあと会場とのディスカッションになりました。
会場は、そんなに広い場所じゃなかったんですが、100人近い人が来ていて、椅子が足りませんでした。年代は、中高年の方が大半のようでした。
会場からの声でぼくが印象的だったのは、「自分たちにはなにができるか」という話の中で、大正区(沖縄出身やゆかりのある方が、多く住んでおられるところです)から来られた女性(お母さんが沖縄出身だそうです)が、「自分が生活している場所から、情報や意見や思いを伝えていきたい」と、おっしゃっていたこと。
自分が住んでる町からというのは、一番難しいけど、すごく大事ですよね。


それに関連することで、講師の都裕史さんが、戦争体験者の方が、自分の戦場での体験を自分の子どもや孫に伝えることができずにきたということにふれて、そうした事柄を話せないような雰囲気を、家庭や社会において作ってしまっていることが一番問題ではないか、ということをおっしゃってました。


それから、やはり都裕史さんのお話で、「なにができるか」というときに、行動そのもの以上に、その行動を作っていくまでのプロセス(議論など)における、人間同士の「思い」のぶつかり合いみたいなものが重要なのだと、おっしゃってました。
それはすごくしんどいことなので、今はどうしても、そうした衝突を回避しようとしがちである。
でも、その人間同士がぶつかりあうプロセスなしで「なにをしたらいいか」という方法のサジェスチョンだけをいきなり求めるというのは、かえって大きなストレスを生んでしまうのではないか。
これも、すごくいいお話だったとおもいます。