未来の自分

『Freezing Point』の26日のエントリーは、どれもぼくにはおそろしく重要なものに思えた。
そして、全部が強くつながっている。
とくに、二つめのエントリーの中の『年齢からくる絶望が気になる・・・』と言う言葉。
そして、最後のエントリーの

逆に言えば、「どうしてクスリをやめなければならないのか」が、問われるのだと思う。 ▼クスリをやめたって、もう苦痛に満ちた人生しか待っていないのかもしれない。


という問いかけの重さ。


いま読みなおしている『魂の労働』(渋谷望著)には、神戸の震災の後に仮設住宅で「孤独死」をとげるにいたった人の個人史の記述が引用されている箇所がある。著者はそれを、現代の日本の低所得者層の存在の脆弱さを示す具体例としてとらえている。

『彼に典型的な、多くの「孤独死」に共通する特徴は「生きていてもしかたがない」というあきらめの感情である。それゆえ、それはかぎりなく自死に近い。』

『ここから見えてくるのは、彼らは、普段から孤立、疾病、貧困という複合的な危険にさらされている脆弱な存在だということである。(中略)震災は孤独死の原因というよりも、これらの諸要因によって重層的に強化される、孤独死への潜在的な傾向を顕在化させる契機にすぎない。』(いずれも、p202)


ぼくが思うことは、人が「生きていてもしかたがない」という絶望的な気持ちにとらわれる臨界が、現在の社会では(震災の頃と比べても)、ずっと下がってきているということ、それは決して主観的な理由によるのではなく、社会構造がそうなってきているということだ。
臨界が下がるということは、年齢という意味もある。すごく若い段階で『もう苦痛に満ちた人生しか待っていないのかもしれない』という思いをもたざるを得ない人たちが、たくさん出るような時代と社会に、ぼくたちは生きている。
「だから社会を変えないと」ということ以前に、現実としてそうなっているということの重さ。「クスリ」よりもましな救いが、ほんとうに見つけ出せるのか。
それが現実であることを、ぼく自身少しは知っているのだ、ほんとうは。


『年齢からくる絶望』という言葉の意味は、たしかに「社会復帰」が難しいということもあるが、同時に経済的な格差が拡大し、社会保障が切り詰められることによって、平均寿命そのものが下がってくるということがあるだろう。
つまり、昔よりも(絶対的な意味で)「残り時間が少ない」のだ。
かりに多くあったとしても、それは見通せない。その見通しのなさは、力や希望を生むような広がりではなくて、閉塞した視界でしかない。


ぼく自身、10年先、5年先の自分を現実的に想像できない。50までは生きられたとしても、とても60までは生きないだろう、と思う。
かりにその年になって生きているとしても、その生きている自分の姿がまったくイメージできない。