「見せしめ」としての

しかし、われわれが隔離や排除に反対するアクションを起こさない――あるいは、そうしたアクションを支持しない――場合、それはわれわれが排除や隔離を否認しているからなのだろうか。こう疑うべきかもしれないのだ。われわれはたんなるニュートラルな傍観者としてではなく、もっと確信犯的に「敗者」や「余計者」を敵視しているのではないだろうか。 (渋谷望『魂の労働』p86)


五月からは今より忙しくなるはずなので、今のうちに読み応えのありそうな本を読んでおこうと思って、今日酒井隆史の『自由論』を奮発して買ったんだけど、その前に酒井の盟友渋谷望のこの本を一通り再読するつもり。
森達也の本もまだ読みきってないのだが。


『魂の労働』をあらためて読みかえすと、このブログで書いてきたあらゆる話題に関係したことが、この本で論じられてることがよく分かる。
一体何を読んでたんだろうという気もするが、まあ人間の関心のあり方とか、自分の記憶力などを考え合わせるとうなづけるか。


はじめの方で言うと、タイトルチューンになった最初の論考や、新自由主義(ネオリベラリズム)と共同体主義(コミュニタリアニズム)の相互補完性というか共犯性を指摘して「参加型福祉社会」という言葉を批判した「<参加>への封じ込め」という論考もすごく重要だと思うが、上に引用した文章が出てくる「消費社会における恐怖の活用」のインパクトもすごい。
消費社会において「ホームレス」のような貧困者の存在は、消耗が宿命づけられた競争と消費のサイクルに嫌気がさしてリタイアしようなんて考えるとお前らもこうなるぞ、っていう「見せしめ」「脅し」として機能してるという見方なんだよね。
さすがにこの指摘は、ずっと印象に残ってたけど、あらためて読んでみると、やっぱりいろんな発見がある。