「内なる外部」

『魂の労働』では、アメリカのヒップホップ映画や黒人の音楽文化からのイマジネーションが大きな魅力になっている部分がある。


マジョリティやエリート層を「弱者」と規定してしまう「新人種主義」の言説戦略や、「犯罪の人種化」、「人種の犯罪化」といった「カモフラージュされた人種主義」という現代の傾向を分析した「反転する公共圏」という論考では、最後に<内なるアウトサイダー>とか<内なる外部>という語であらわされる「マイノリティの二重の位置性」の概念が、黒人の音楽文化のなかに見られる<約束履行の政治学>と<変容の政治学>の緊張した同時性・複合性と重ね合わせて語られるのだが、まるで中上健次の小説の文章を読んでるみたいだ。
正義や平等といった「市民社会のレトリック」の実現を求める<約束履行の政治学>が歌われる内容のレベルにあてはまるとすると、それだけでは抑圧から解き放たれることはできないと知っている「奴隷の子供たち」は、「しばしばそれと矛盾するプラスアルファの実践」を重ねようとするのだ、という。

ブルジョワ市民社会の諸価値が黙認していた「奴隷制」という圧倒的な不正義の変更を迫るこのユートピア政治学は、それゆえ市民社会のロジックに内在して直示的に歌われるだけでは不十分であり、パフォーマティブな形で演奏され、踊られ、演じられることを通じてしか垣間見ることはできない。それゆえそれは低周波帯のなかに存在する(p138)


今読むと、これはフランスでの若者たちのデモ、といっても反CPEのそれではなくて、その前の移民の子供たちの「暴動」、それからあの「壊し族」や「剥ぎ族」たちの無秩序な行動を想起させる。
それらは、「しばしばそれ(つまり、内容)と矛盾する」、パフォーマティブな、低周波帯のなかの行動だったのだ。たとえば、落書きみたいな。
渋谷望が言うように、『福祉国家イデオロギーのなかでかき消されていた<内なる外部>の経験を』、現在の『「ポスト福祉国家」の文脈のなかに呼び戻すこと』こそ、ぼくたちにとってもっとも重要なのだと思う。

魂の労働―ネオリベラリズムの権力論

魂の労働―ネオリベラリズムの権力論