欲望について

こないだのコミュニケーション能力の話に関連してなんですが、ちょっとまとまってないことを書いてみます。


ひとつは、人間には欲望があるということに関して。
男性と女性でいうと、女性が男性の眼差し、つまり欲望によって要求するコードに合わせて化粧をしたりするということは、主体的でないみたいにみえる。でも、それを批判することは正しくないと思うのは、こないだのエントリーでも書いたように、相対的に不利な立場にある女性がいまの社会のなかで生き残っていくためのやむをえない努力だから、ということもある。
しかし、それだけじゃない。


化粧をしたりおしゃれをしたりということは、人間の欲望に関わる行為である。なんらかの意味で、より自分の欲望にかなう性的対象の関心をひきたいと思うのは、当然のことだ。そのための努力なのだから、これは基本的に肯定されるべきだ。「自分の欲望にかなう性的対象を得る」ということが全てじゃないけど、自分だけじゃなくて、相手にも欲望があるわけだから、とりあえずお互いをその部分まで含めて尊重して(無条件に、じゃないけど)、そこで関係を作っていこうと努力することは、非常に大事なことだ。少なくとも、理解しあうための条件を作ろうとする、という姿勢。


どちらかというと、これまでは男の方がそういう努力をしないできた。それは男が、社会のなかでの有利な立場に安住してきたからである。
自分たちはそういう努力をしないで、弱い側の人間には、自分たちの欲望にかなうようにしろと要求(強制)してきた。強者の側にある人間が、コミュニケーション能力を習得していく必要がある、というのは、こういう意味合いもある。
これは、そういう非対称な構造に問題があるのであって、そのこととコミュニケーションのために化粧をしたりおしゃれをするということは、分けて考えるべきだ。


つまり、欲望をもった存在であるお互いを、その欲望を無条件に認めてしまうということではないけど、根本的に肯定することは大事なことである。
流行とかに無理に合わせるということじゃなくて、相手が不快に思わないような身だしなみに気を配ったりするのは、人間が欲望をもっている存在だからこそ、大事なことだ。
早い話、そこを押さえておかないと、ポル・ポトみたいになる。
なぜそうなってしまうのかというと、自他が欲望をもった存在だと認めるということが、たぶん非常にしんどい、困難なことだからだ。それは、社会のなかで支配的な立場にある人間(たとえば男性)を、すごく不安定なところに追い込むのだ。


欲望というものを、特に人間関係のなかでどう取り扱ったらいいのかは、ほんとに難しい。
欲望には、相手を物象化するという本質があるからだ。
いろんな悪がそこから生まれるんだろうけど、同時にそれが人間の存在の条件でもある。
それについて、思うことがある。


人間が最低限生きていく、というのは、どういうことか。それは、欲望を含みこんでのことだと思う。
ずっと前、このエントリーにも書いたけど、「生きる権利」というのは、ただ生命を維持するだけ、ということではない。「ただ生命を維持するだけ」の生に価値がないということではなくて、それ以上のものを求め、望みながら生きることを、どんな人間にも認めるということは、とても大切だと思う。
ホームレスの人たちを、プライバシーもない施設のようなところに押し込んだり(そこからも、すぐに追い出されるんだけど)、障害者を地域から切り離して一生施設に閉じこめたりして、「最低限の生存は保障してやってるんだから我慢しろ」とか「贅沢をいうな」という言い分を認めてはいけない。
それは人間を、意志も欲望も感情も持たない、石のような物体と見なすことで、それが生命を否定する考えにそのまま通じるのだ。「収容所の思想」というのは、そういうもんだろう。


大阪市で行政代執行があった頃、テレビのインタビューで「(公園では)リッチな生活をしていた」と答えた野宿者の人のことが話題になり、非難されたりした。
この言葉は言葉自体としても、明らかに真実を言っていないということはわかる。公園でテントをはって生活していて、「リッチな生活」なんてできるはずがない。早い話、病気になっても、この人は医者にもかかれないだろう。
なぜ、こういう言い方になったのか。それが意地なのか、照れみたいなものなのか、追い詰められた状況を心理的にやり過ごすためのぎりぎりのユーモアなのか、イメージにはめ込まれることへの抵抗なのか、ぼくにはもちろん分からないけど、自分が同じ立場だったとしたら、同じような「嘘」を言ったかもしれないと思う。それを、「嘘」と呼べるとすればだが。
ただ、かりにこの言葉に一抹の真実があったとして、それがなぜ非難されねばならないのか。厳寒の日でも酷暑の日でも、野外で生死ぎりぎりの生活を営んでいる人たちが、そのなかでのわずかな「リッチさ」を享受してなにが悪いのか。
その言葉を非難する人たちというのは、自分が強いられている圧迫を、弱い立場の人たちの欲望を否定し、人間であることを否定することへと転化しているだけではないのか。


そして、なぜ弱い立場の人間は、「最低限の生か悪か」の二者択一を迫られなければいけないのか。


人間が最低限生きるということのなかに、「欲望する権利」みたいなものを含んで考えるということ、これははっきりした形にはしにくいことだし、上に書いたようにたぶん非常にしんどいことだと思うけど、「他者を認めて生きる」ためには基本になることじゃないかと思う。
もっと広い、政治的・歴史的な問題を考えるうえでも。


ところで、ここで大事なことは、いつも弱い立場の、つまり強者に合わせたコミュニケーション能力の習得を強いられている側の人の方が、そういう「欲望」を持った存在としての他人に対する優しさや思いやりを持っているように思える、ということだ。この非対称性は、何か本質的なものだと思う。


はじめに「ひとつには」と書いたように、もうひとつ書きたいことがあったんだけど、疲れたので、これでやめます。