「反歴史修正主義」が守るもの

下記で言われている「似非科学」の問題とは、たぶん違うんだろうと思うんだけど、読みながらちょっと思ったので。
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20080522/p1


「反歴史修正主義」という立場がある。
これは、歴史修正主義のなんに対して反対してるんだろうか。「客観的な真実の歴史を、自分の思惑に合うようにねじまげる」という行為に対してだろうか?
ぼくはそうではなくて、そのような態度を、つまり「自分の思惑に合うようにねじまげる」ことが可能なものであるという態度を、「歴史」に対してとることによって、人間の、歴史(世界)に対する信頼を損なってしまうことに反対し、それに対抗するものだと思っているのである。
だから、「反歴史修正主義」というこの立場は、基本的に、人間が世界のなかに存在することの土台である信頼というもの、人間に対するある種の信を擁護することを、その本性とするはずだと思う。
この立場が、資料などによる検証の積み重ねに重きを置くのは、客観性そのものを絶対視しているわけではなく、「検証」が人間(の存在)にとって意味あるものであるという一種の(しかし、とりかえが利かないと思われる)信を、守ろうとするがためだろう。
ところが、ときどき、検証を重視するその真摯な態度のなかで、肝心の人間に対する(ついての)信というものが、見失われる場合がある。それはよくないことだ。
もちろん、人間に対する信を、もっぱら損なうものは、「反歴史修正主義」ではなくて、「歴史修正主義」の方だろう。
だから、「反歴史修正主義」という立場の正当性自体は、ぼくも疑わない。
だがそこで本当に大事なのは、「検証」や「事実」が人間にとって取り替えのきかない意味を持つということへの信、つまり取り替えのきかない現実的な存在としての人間に対する信、信頼、といったことであろうと思う。


追記:考えてみると、「反歴史修正主義者」に向かって、「歴史修正主義者への信がない」と言って非難するわけにはいかない。でも、守るべきものが、客観性のようなものなのか、「信」であるのか、ということは残ると思う。