「政治的正しさ」を超える?

単純なことやけど、この表題の意味が分からん。

http://mainichi.jp/enta/art/news/20101020dde018040023000c.html


「政治的正しさ」を超える、というのは、どういうことだろう?
政治的に正しいものが何かという考えは立場によって違うから、その相違を超えたところに見出される「高貴さ」という価値に拠り所を求めよう、ということだろうか。
しかし、「正しさ」そのものを超える、というからには、それは「高貴さ」に比べて「正しさ」の価値が低く見つもられている、ということになるだろう。



私は、立場(何が政治的に正しいかという主観)の違う人同士が、ある目的のためにその都度手を組んだり組まなかったり、ということはあっていいと思う。
もちろん、そこで譲れないものはある。
だから、「右翼と左翼が手を組んで」というようなことはどうもにわかに信じられない。
だが、私がもっとも大事だと思う「正しさ」、例えば「人を傷つけるべきではない」とか、「平和を守るべきだ」とか「権力の圧迫に抵抗するべきだ」とか、そういった事柄に関して、いまこの場の状況において意見が一致して共同の行動をとれるのなら、相手の人がたとえどんな政治的立場を自称していても、力を合わせる努力はなされて当然だと思う。


しかしこの場合、私は「正しさ」というものを手放しているわけではない。
ただ、「正しさ」のどういう要素がもっとも大切かを判断して、その実現のための方策をとろうとしているのである。
(私にとっての)この「正しさ」に代えられるものは、何もない。
誰にとっても、そうだろう。
それを放棄したところに、人間の「高貴さ」などあるはずがないのだ。


運動とか闘争とか抵抗とかいう言葉を離れて考えても、私たちは日常を、何らかの大文字の「政治的正しさ」に従って生きているわけではない。
生きるために、自分の信念に反することをしている場合もある。むしろそちらが大半かもしれない。
だがそれも、自分にとっての「正しさ」というものと、自分が生きていくという大切なこととを、出来るだけ両立させ、合致させようとしているのである。いや、その(ほとんど実現不可能な)合致こそが、本当の生の「正しさ」と呼べるのかも知れない。
そういう意味で、そこには葛藤をはらみながらも、根源的な「正しさ」に照らされた、人間の生というものがある。
それは、私たちの誰もが生活のなかで経験しているはずのことだし、竹内好の思想の道筋というものも、そういうものとしてこそ理解されるべきだと思う。


中島氏の文章には、私はそういうものを感じない。
中島氏が言っていることは、「政治的正しさ」の理念、いや、人間が生きる上での大切な光源である「正しさ」(それが常に不確定で揺れているのは、むしろ当たり前のことだ)というものを放棄することを、「高貴さ」という価値を持ち出すことによって美化・隠蔽し、放棄(権力への迎合)をすすめているもののように、私には思える。


この竹内好の持ち上げ方は間違っている。
少なくとも、そう言える。