倫理について

前々回のエントリーに、こう書いた。

http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20060329/p1

それはともかく、もっと根本的な意味で、「他者を見殺しにすること」がぼくたちが生きることの基本的なあり方なのではないかという感じが、ぼくにはある。


たぶん、ここまでは言える。この「他者」という言葉を、人間に限定しても、他の動物などまでひろげてもかまわない。ともかく、ぼくたちは多くの他者の死とともに生きていて、その死の事実を日常においてはなるべく意識しないようにしている。それは、意識してしまうと、自分が生きることが困難だからである。
このこと自体は正義でも悪でもなく、人間の存在の条件のようなものだろう。悪があるとすれば、この事実性(多くの他者の死とともに生きていること)を、あえて忘却したり、否認したりすることだ。
これがなぜ悪といえるのか。考えつく理由のひとつは、それが本人が生きるうえでの自由を奪ってしまうことになるからである。それは、人が倫理的(かりにこう呼ぶ)に生きる自由、ぼく自身の言い方でいうと、原初的に生きる自由、ということである。


ところで、大量の他者の死と、自分が生きていることの間に因果関係があるかどうかは、一概にいえない。ある種の社会構造についての認識(「世界システム理論」みたいなもの)は、そこに因果性を見る。問題は、この認識が人をどこに連れていくか、ということである。この認識によってもたらされる行動が、より多くの他者の死をもたらす可能性は小さくないと思える。それなら、この認識が正しいかどうかは、じつはなんの意味ももっていないことになる。
だから、こういう、他者の死と自分の生との間の構造についての認識は、ぼくは今の時点では、あまり重視できない。


関心をもつのは、もっと実存的、ないしは身体的なケースである。
つまり、ここに死に瀕している他人がいるとして、それに自分はどう関わるか、ということだ。
明らかに、自分がなんらかの関与をすることによって、他者の死に歯止めがかけられそうな場合があるだろう。
うえにぼくは、「他人を見殺しにすること」は、人間にとって基本的なあり方ではないかと思う、と書いた。これはもちろん、「見殺しにせよ」ということではない。
ぼくがこだわるのは、「見殺しにするな」と命じてよいかどうか、ということだ。「命じる」ということは、自分に対してと、他人に対してと、二通りある。他人に対して命じることは、社会的な制度の問題であり、別の話になるかと思う。自分に対して、ということを考えてみる。
ぼくの危惧は、「見殺しにするな」という言葉が、他人を助けるという原初的な行動を阻害するのではないか、ということだ。こうした言葉、それをぼくは「倫理」と考えるわけだが、それが、人が人を助けるという行動を縛ってしまうのではないか。そのことを考える。
人は本当に、目の前の他者を見殺しにしてはならないのだろうか。むしろ、ただたんに人は他人を助けるのであり、たまたま助けない場合もある、と考えるべきではないか。
そう考えることによってしか、生きている人間の行動をそのものとして守ることはできないのではないか。「生きている」ことを、言葉の側に手渡してしまって、本当に人の命は守られるだろうか。


話のはじまりが『ホテル・ルワンダ』に関することだったので、もっと切迫したケースに例をとってみよう。
ぼくは、こう考えるのだ。
自分が生きることと、他者の命を救うこととが矛盾する場合、どちらを優先させるかは、そのときにならなければ分からない。「どちらを優先させるべきか」というルールを仮に「倫理」と呼ぶとすると、それは人間の行動にとっては外在的なものにとどまるだろう、と思う。もし、「他者の命を救う」ことの方を人が優先させたとするなら、そこには「倫理」とは別の力が働いていたはずだ。ぼくはそれを、「原初的」という言葉で呼んだのである。つまり、「倫理」のような「言語」以前にある人間の行動のあり方。
たしかにその力は、現実の世界では働いていないように見える。しかしそれを回復させる手段として、倫理(言葉)は、本当に有効だろうか。


だが、今日の社会で重要なのは、むしろ、人が倫理的に生きる自由を守ることだ。
人が倫理的に生きることが禁じられるような時代にぼくたちは生きており、そのことが逆に原理主義的な意味での倫理主義の突出をまねいている、とも考えられる。
そして、人が生きることというのは、つねに過剰なものを含んでいる。倫理とは、この過剰なものの別名のひとつだろう。生きる自由のために行われる、過剰なものの侵犯を、ぼくは肯定する。