「原初的」ということ

はじめに、前回のエントリーのコメント欄で、「一個人が地球全体のことに責任は持てない」というふうに書いた。たしかにそう思うのだが、同時に何かひとつのことぐらいには責任を持ってもいい、むしろ持つべきだろうとも思う。
これは「関心を持つ」ということとは、少し違う。関心は、いくつものことに対して持てるが、責任となると、そういうわけにいかないだろう。
ここで留意したいことは、ひとつのことに責任を持つ、という場合の、その「ひとつのこと」というのが、必ずしも他人から見て「当人に身近なこと」であるとは限らない、という点である。「自分の足元のこともおろそかにして、なんでそんなことに」と言われるような事柄に、人はのめりこむ場合がある(やはり「縁」という言葉を参照するのが、すごくしっくりいくようでもある。)*1

これは基本的には「関心を持つ」ということの強い形だと思う。だからこそ、「身近であること」がその絶対的な基準にならない、という奇妙な現象が生じてるわけだが、ところでその「強い関心」が、どこかで「責任を持つ」というような倫理的なレベルに移行するということが生じるのかもしれない。その理由は、よく分からないんだけど、それがまあ(コメント欄で示唆を受けた言葉を使えば)本当の「機縁」になるのだろう。
ともかく、「関心を持つ」ということは、人間が持つ非常に特異な能力であり、可能性だと思う。
以上は余談。ここからメインのネタです。


前回のエントリーで、クリプキウィトゲンシュタインについての文章を引用して、「原初的」という言葉を用いた。ウィトゲンシュタインに詳しい方ならお分かりだと思うが、正確にいうと、これは「原初的な感情」があるという意味ではなくて、むしろ感情や感覚への共感といった内面的な要素(理由付け)は、反応や行為の後になって、事後的に見出されるものにすぎないということを言っているのだ。
たとえば目の前に危機に瀕している誰かを助けるという行為は、内面的な理由付けによることなく、本来は無媒介になされるものだと、ウィトゲンシュタインは考えていた、というわけである。
どうもこの考え方は、そういってよければウィトゲンシュタイン個人の(原初的と呼べるような)「性格」に深く関わってるものだと思う。だから「他人の痛み」や苦しみにどう対応するかという事例は、ウィトゲンシュタインの思想全体を考えるうえで、互換可能な一事例にすぎないとは、ぼくは思わない。
ともかく、「助ける」ことが「原初的」な行為であるというのは、そういう意味である。そしてこれは、動物的と言い換えてもいい。動物がそうするように、人は人を、意味もなくただたんに助ける、命を賭してでも。そこに内面や言語による媒介はない。
もし、生においてこの原初的なものが見失われているのだとすれば、それは社会的な理由によると考えるしかないと思うのである。


ところでこの無媒介の行為としての、「救助」、助けることというのは、コメント欄で考えたように、ある契機にふれて「自分を開いて別のところに自分を移しかえていく」といえるような態度ではないかと思う。それは、(ふたたびこの言葉を使うと)「機縁」にたいしての絶対的な受動性、とでも呼ぶべきものだと思う。
このことについて、示唆的なことがある。


やはり前回のエントリーのなかに書いた「ある作家」というのは、じつは保坂和志のことだった。うろ覚えの内容であり、自分なりの解釈を加えていたので、あえて名前を出さなかったのである。
その保坂の小説「生きる歓び」については、去年からこのブログで何度もふれてきた。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20050721/p1

http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20050722/p1

生きることを拒絶しているかのような虚弱な子猫をケアする顛末を描いた、この私小説的でもある小説は、たいへん短いのだが、非常に興味深い作品だと思う。
内容については、上記のエントリーと、もちろん現物にあたってもらいたいのだが、この作品の冒頭に置かれた瀕死の子猫を主人公が拾うことになる場面に、ここではとりあえず注目しよう。上記のエントリーでもとりあげられているが、ここで主人公がなぜこの猫を助けるかについては、積極的な理由付けはされていない。成り行きのような感じで拾わざるをえなくなり、しかしそうなってしまうと、主人公はその猫を介抱することに(責任を持ち)専心していくのである。主人公は「縁」にふれて、この命を救い、そしてその縁を大切にするかのように、猫を大事に育てはじめる。


この話も、大事なことを含んでいると思うのだが、ところでやはり上記のエントリーに書いたように、同名の文庫本には、保坂のもうひとつの作品が収められている。それは、保坂がもっとも敬愛した作家、田中小実昌の思い出をつづった「小実昌さんのこと」である。
その田中の作品のなかで、代表作とされるのは「ポロポロ」と「アメン父」という、父親にまつわる二つの伝記的な小説だが、この両作品に、「理由なく」人を助けるということ、「原初的」な行為ということについて考えさせられる、ある重要なエピソードが共通して登場するのだ。
実際、日本の小説家のなかでも、田中小実昌ほど、このことを考えぬいた人はいないと思う。『宗教(そして哲学)はココロの問題ではない』という田中の言葉は、まったくウィトゲンシュタイン的だ。
このエピソードは、田中のそうした考え方、感じ方の特質を知るうえでも重要であり、また保坂和志の如上の一節と比較しても興味深いところがある。
それは、こういう話だ。
田中の父、田中遵聖は有名な宗教者だったが、関東大震災のときに、あの有名な事態に遭遇する。『アメン父』から引いてみよう。

関東大震災のとき、父は東京の千駄谷の東京市民教会の牧師をしていた。朝鮮人が暴動をおこし、おそってくるというので、町内の自警団が竹槍をかまえて警戒しているところに父はいき、朝鮮人の暴動などデマだ、朝鮮人だからと竹槍でついてはいけない、とあちこちで言ってまわり、朝鮮人のかわりに、父が竹槍でつかれそうになった、とこれも母が言っていた。
 父にすれば、朝鮮人がなにもしないのに、竹槍でつかれたりするのは、だまって見ていられず、ノコノコでかけていって、朝鮮人をかばい、自分も竹槍でつかれかけたようだが、たぶんに、オッチョコチョイの感がある。
父は荘重な男ではなかった。かるいことと重いことでは、かるいことを好んだ。世間では、人間に重みがついた、などとほめたりするが、父は、そんなのはきらいだった。イエスによってかるくされるのであって、イエスのために、その人に尊厳さがくわわったりするのではない。(講談社文芸文庫版 p64〜65)


なにかもっともらしいことが書きたかったが、田中の文章を移してるうちに嫌になった。
どう書いても、「オッチョコチョイ」という一言には勝てない。
要するに、ぼくも宗教とか倫理というのはこういうものだろうと思うし、人が人を助けるということは、きっとこういうことだろうと思う。
親鸞ウィトゲンシュタインにとっても、そしてポールさんにとっても、そうだったはずなのである。

アメン父 (講談社文芸文庫)

アメン父 (講談社文芸文庫)

*1:エントリーのなかでも、その人がどういう経験や情報を身体的(身近)と感じるかは他人には決定できない、という書き方でそのことに若干触れた。