戦争における自由と倫理

南京大虐殺」をめぐる番組について、きのう書いたことだが、説明の不十分なところがあったかも知れないので、少し補足する。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20080407/p2

「軍隊に入ったら、あるいは戦場に立ったら、命令に背くことなど不可能だ」という言い分もあるが、それに背くことは、原理的には可能である。


この部分である。
「原理的には可能」とは、どういう意味か?
戦争に行って上官の命令に背くことは、軍法会議、場合によっては処刑さえ意味しうるだろう。そうでなくても、そう仮定しよう。
また、戦場で目の前の敵兵を撃たないことは、ただちに自らの死を意味するだろう。
このとき、どんな第三者も、ある人に対して、「自分の命を犠牲にしても、不当な命令には従うな」ないしは「敵を殺すな」と強いることは出来ないだろう。
つまり、「生きるか死ぬか」という条件の中で、「正義や良心のために死を選べ」と、他人には言えない。
だが、このことは、次のことと矛盾しない。
それはつまり、人は誰でも、自分の命を賭してでも、自分の意志を貫くことをする自由がある、ということである。


戦争で虐殺に加担する行為をした兵士が、自らの主体的行動としてそれを行ったと捉えるべきだ、というのは、この意味においてである。
「命じられたかどうか」ということ、また「やむをえない状況だったかどうか」ということとは、別の次元の問題なのだ。
「軍」や「戦闘」という、強いられた条件においてであっても、その人は、自らの自由のなかに生きている。
法的には、また第三者の視点から見るなら「やむをえない」「強いられた」行為であっても、その人自身にとってのみは、とりわけその人と他者との関わりにおいては、その全ての行動、その人の生と死の全体は、その人の自由のもとにある。
虐殺(殺害)という加害行為は、この次元でとらえられることによってのみ、その当人にとって倫理的な事柄となるのだ。


私は、命じられ、強いられて虐殺を行うのだが、命令に服し、そのことを行うという自由は、私のものである。
だから、この(個人としての)行為の倫理的な有責性もまた、ひとり私だけのものである。


ぼくは、「加害の誇り」(福田和也)というふうなことを言いたいのではない。
他者との倫理的な関係を、事後であっても、可能にする唯一の条件とは何か、ということを問題にしているのだ。


たとえば、以前ある番組で、強制収容所で多数のユダヤ人の子供たちをガス室で殺し続けたことを、自らの信念にもとづく行動であったと認め、ある意味で自己肯定しながら、告白の講演の旅を続けている、元ドイツ兵を見たことがある。
たとえ信念や誇りにもとづいた行動であっても、過去のその行為を「肯定する」という態度を、ぼくは認めない。それは、やはり開き直りだと思う。
だが、信念(自由意思)を認めた上での「開き直り」も、それを認めず「やむをえなかった」と自分に言い訳しながらの「開き直り」も、どちらも同じことではあるが、他者との倫理的な関係の回復への道が開かれているのは、前者である。
「軍」や「戦争」をめぐる日本社会の論理、通念は、この道を閉ざしてしまうのである。


とりわけ、軍隊という組織においては、「命令と服従」という組織の論理こそ全てであり、そこに個人の選択の余地はないという、国家の論理(デタラメ)がまかり通っている。
事実は、ある行為が命じられたものであるという法的・形式的な事実性が、その人の生と死の全ての領域を覆いつくすということはない。
人は常に、おのれの自由を通して、他者との直接的な関係(倫理的つながり)のなかにこそ生きている、と言うべきなのだ。