「当事者」とか「主権」とか

1月30日に行われた大阪市の行政代執行のことが語られるイベントが、4月3日に大阪であるそうです。
http://ikiteikite.exblog.jp/4296023/

豪華メンバーで、行ってみたいけど、ちょっと高いので無理です。たしかに、「格差社会」で「機会不平等」だよな。


やっぱり、「当事者」という言葉がどうにも気になる。
今日のニュースで、民主党の永田議員にメールを提供した西澤孝という人を証人喚問するかどうかという問題で、自民党の国対副委員長が記者会見で「民間人の証人喚問には慎重であるべきだが、(西澤氏は)関係者ではなく、当事者だから喚問するべきなのだ」と言っていた。
「関係者ではなく、当事者だ」。これは、英訳するとどうなるんだろう?
「関係者」というのも、曖昧な日本語だよなあ。


いま読んでいる『当事者主権』だが、どうも抵抗を感じると思ってたら、今日気がついたのは「当事者」の方にばかり気をとられてたが、「主権」という言葉も大問題なのだ。
この前読んだ『暴力の哲学』では、著者の酒井隆史は、どんな社会運動においても「主権」にこだわることはたいへんよくないことである、と強調してた(と思う)。
『当事者主権』の主張は、書名に明示されているように、当事者が主権を握ること、それをゆずりわたさないということである。
これは、簡単には折り合わないだろう。
こういう場合のよくあるスキップの仕方は、「主権にこだわるのはよくないが、現状は主権を奪われている状態で苦しんでいるのだから、まず主権を取り戻して、それから『脱主権』を行うことにしよう」というふうなものだろう。
しかし、こんな「二段階革命論」みたいな物言いは、著者たち自身が一番受けつけないんじゃないか。


なぜ当事者が主権を握らないといけないかというと、そうしなければ他の人(国とか行政とか支援団体とか)が主権を握ってしまう、ということだろう。そのことは分かる。
当事者が「脱主権」するということは、当事者が「主権の暴力」に、より深くさらされることを意味する。だがだからといって、「主権」にこんな大きな意味づけをしていいのか、という思いはやはり強い。


一般的にいって、当事者以外が主権を握ってしまうことで生じるのは、代理表象の政治といえるだろうが、当事者が主権を握った場合にも、別の形の政治(したがって、政治的暴力)が生じてしまうだろう。これは、当事者の集団内部での権力関係という意味である。
そしてもちろん、政治的であること、政治的暴力をはらんでしまうことは、それ自体では悪ではない。
人は、政治性をまったく回避して生きることはできない。少なくとも、国家や資本はそれを許さないだろう。だから、「当事者による運動」という主張の重要性は、この意味でも否定するつもりはない。
だが、降りかかってくるさまざまな政治的暴力に対する身の処し方を選ぶ自由は、やはり各個人に属するものだと考えるべきではないか。
「主権」という言葉の強調に、ぼくが抵抗をもつのは、そういう理由からだ。