「基地雇用員のリアルタイム」を読んで

さて、じつは「国家と暴力」ということを考えるとき、ぼくが一番先に思い浮かべる具体的なイメージは、米軍基地(特に沖縄の)のそれである。
先日紹介した『沖縄的人生』という本のなかに、西銘牧子という人が書いた「基地雇用員のリアルタイム」という興味深いルポルタージュが収められているので、それについて少し書いておきたい。
これは題名どおり、沖縄の米軍基地で働く住民の人たちの現状についての、短いがたいへん優れたレポートである。
これを読んでいて一番印象に残ったのは、この従業員の人たちの労働環境が、たいへん好ましいものである、ということだ。

駐留軍従業員はその待遇面において、給与の面ばかりでなく健康からプライベートまでじつに多岐にわたるサポートを受けている。それがまた彼らの仕事に対する意欲に反映されているのは言うまでもない。実に基本的なことであるが、仕事は仕事の時間、プライベートはプライベートとして保てる時間がはっきりしていれば効率もよくなるものである。現に彼らは仕事に対してほとんど不満をかかえておらず、常にいきいきとして明るい。


米軍の兵士や、同じ日本人従業員など、同僚たちとの家族ぐるみの交際(「付き合い」ではない)を楽しみながら、余裕をもった雰囲気のなかで働く「基地雇用員」の人たちを、筆者は率直に「うらやましい限りである」と書いている。
もちろん、多くの人が基地雇用員になりたがるひとつの背景には、他の都道府県よりもずっと厳しいという沖縄の経済・雇用の状況がある。また、「基地で働く」ということには、隣人である地元の人たちからの厳しい視線もあるし、基地の移転などにともなう失職の不安も常にある。
それに、こうした好待遇がアメリカの軍事力の強大さや、日本の「思いやり予算」という不自然な制度によって可能になっているという現実は否定できない。総合的に考えれば、待遇面だけを見て「いい仕事だ」ですませることはできないのだ。


それでもやはり、ここに書かれているような待遇や労働環境は、単純に素晴らしいものであると思う。このリポートで描かれている、働く人たちの「幸福」を、どうしても否定的に考える気にならないのは、倫理的な理由からではない。
もちろん、基地で働く沖縄の人たちが、あるいは一般的に基地や軍事産業で働く人たちが、「幸福」であるかどうかはぼくには分からない。「言う資格がない」ということではなくて、単純に分からない。
まただいいち、軍事産業と非軍事産業の境目がどこにあるのかも分からない。


ただ、人間が人間らしくあるために必要な労働環境というものがあり、それが米軍基地においては確保されているということを、どう考えればいいだろうか。
現にこのリポートに登場する人たちは、基地外の一般の企業で働くよりもずっといい、ということを口々に述べている。
その背後や背景にどんな思いや現実が隠されているとしても、この言葉自体は否定してはいけないものだと思う。


もちろん「米軍基地バンザイ」と言いいたいわけではない。ただ、ここ(基地の柵のなか)に人間的な労働環境があることは事実のようだ、ということである。そして今日、そうした労働環境が、軍や国家と無縁なところで果たして可能だろうか、と思うのである。
ここで視点をかえていえば、戦後60年間の日本社会は、それ全体が巨大な米軍基地のようなものだったのではないか?その外側の一般社会、ということは例えばアジア諸国、というふうな意味だが、そこには「人間的な労働環境」は存在していなかった。
60年間「基地雇用員」だった1億の日本人は、いまや解雇されたり非正規雇用に切り替えられ、「人間的」であることから追放されつつある。


もしそういうことだとすると、「人間的」という言葉のそもそもの意味が問われる必要があると、とりあえずは言えよう。
軍や巨大資本と関わるところでしか確保されない「人間性」とは何なのか、またそもそも、資本制のなかでの労働などしなくても人間らしく生きていく道はないのか、という考え方は当然あるだろう。
だが本当に、大多数の人間にとって、それは可能な、また妥当な選択肢だろうか。
もしかして、人間が人間らしく生きることは、掛け値なしに、巨大な暴力や遮断を代償にしなければ得られないものではないのか。
軍も基地も、国家も巨大資本も存在しない未来は、本当に人間にとって素晴らしい未来なのだろうか?
ぼくの最終的な疑問は、そういうものである。