沖縄・負債・上野千鶴子

先日、古本屋でこういう本を買った。

沖縄的人生―南の島から日本を見る (知恵の森文庫)

沖縄的人生―南の島から日本を見る (知恵の森文庫)

五章からなっていて、それぞれ沖縄の音楽や料理、竹中労島尾敏雄など沖縄・奄美に深いかかわりをもった本土の有名な人たちのこと、それから基地をめぐる現実や沖縄に生きるさまざまな女性たちの生き方などを描いた文章が集められている。
この本を買ったのは、いま特に沖縄に関心があるからではなくて、「ヤマトンチュから見たオキナワ」と題された第一章の上野千鶴子の文章の一節に興味を引かれたからである。


上野千鶴子については、いま『当事者主権』を読んでいる(中断してるけど)ということもあるし、先日の板垣竜太さんの講演を聞いたときから、かつての徐京植との論争を読み直してみたいと思ってることもあり、少し関心をもっている。
その上野の文章の一節というのは、沖縄に移住したり、『本土とオキナワを行ったり来たりしている人』が増えてきているというくだりで、その一人として名前のあげられた田中美津とのやり取りを記した部分である。

(前略)若い人たちはともかく、田中さんやわたしの年代になると、オキナワが米軍統治下で渡航にはビザが要った時代を憶えていて、そのうえオキナワの米軍基地から連日ベトナムに北爆の飛行機が飛び、前線帰りのベトナム帰休兵たちがすさんだ気持ちを基地周辺の歓楽街で晴らしていたことを知っているので、おだやかな気持ちにはなれない。
 田中美津さんに、「どうしてオキナワに?」と聞くと、「オキナワにはねぇ、なんだか負債があるような気がするのよ」という。その気持ちはわたしにもよくわかる。


このように書く上野は、沖縄戦のことや、戦後の日本政府が沖縄を『アメリカの手に委ねるという棄民政策』をとったことなどをあげ、戦前から現在まで『ヤマトは「オキナワに負債がある」。』として、

わたしは覚悟が決まらなくて、長い間オキナワに足を踏み入れることができなかった。


この一節を読んだとき、上野千鶴子が「負債」という言葉を使ってこういうことを書くというのが、ぼくには意外だった。それで、興味をもって買ったのである。
「オキナワに負債がある」という表現は、これは認識としてはわかるが、実感としては、ぼくのなかにはないものだ。自分も沖縄に行ったことがないが、それは「負債」を感じているからではない。少なくとも、沖縄に行っていない(行けない)ことの理由として、そういう要素は出てこない。
いや、むしろ行っていないことのほうが、負債のように思える。
上野千鶴子が「〜していない」という消極的な、少なくとも慎重な態度と、「負債がある」という感情とを結びつけて書いていることが、ぼくには意外であり、新鮮でもあった。


これは、上野が書いているように、ある程度「年代」によるところがあるのか。
若い人たちはともかく」と書いているが、これはもちろん個人差が大きいのだろうが、どうなんだろう?
上野のエッセイを読んでみてわかるのは、彼女が沖縄における、そして沖縄をめぐる差別の重層的な構造に非常に敏感だということだ。この敏感さが、「負債がある」という感覚のリアリティや、踏み込む行動に対する慎重さと関わりを持っていることは、間違いないだろう。
おそらく「負債がある」というふうに感じないで、直接に深くかかわっていければ一番いいのだろうと思うが、それは個人的にも世代的にも条件によることだろうから、なんともいえない。
「負債がある」と感じても感じなくても、踏み込んでしまえば突き当たるものは同じ、ということかもしれない。


しかしともかく、上野の、差別や社会そのものの重層性に対する、個人的な感覚の鋭さみたいなものにふれることができたのは、この一文を読んでの収穫だった。
ぼくは、上野さんには、だいぶ偏見を持ってるのかもしれない。


自分は沖縄にどういう感情を持ってるかというと、もっと曖昧で一般的なものである。
それは、人間の柔らかい弱い部分がむき出しになっている場所、というイメージで、自分が沖縄に行こうとしなかった理由をあえてあげれば、そういう場所に入っていくことが怖いのだと思う。
だがそれは、たとえば吉江真理子著『ヤマト嫁』という本の一節を紹介しながら、

あなたにも覚えがあるだろう。裏口から一歩、なかに入ってみると次々にあらわれるさまざまな景色。一筋縄ではいかないシマの共同体のあたたかさと排他性。一皮むけばあらわれる生々しい戦争の傷跡。ウチナーンチュとヤマトンチュと、それにアメリカーが織りなす差別の重層構造。(後略)


というふうに繰り広げられていく上野の現実認識の強さとは、やはり質の違う感情だと思う。