『沖縄密約』

また良書の悪口を書く。
本自体は、すごく大事なことが書いてあるので、ぜひ読んでください。

沖縄密約―「情報犯罪」と日米同盟 (岩波新書)

沖縄密約―「情報犯罪」と日米同盟 (岩波新書)

2006年11月の知事選および2007年四月の参院補選(投票率は最低の47・8%)でもわかるように、報告の中の核心部分を占める沖縄においてさえ、そうした議論はほとんどなかった。最大のテーマである米海兵隊のグアムへの移駐などは、すべて日米軍事再編から派生する問題であるのに、肝心のその再編が日本にとっていまなぜ必要なのか、それは将来の日本の国際的地位にどんな影響を与えるのかという本質的な論議が、精力的に展開されることはなかった。主に取り上げられたのは、基地の移転をめぐる局地論だけだった。日本の安全保障全体の観点から沖縄の問題に取り組んだかつての意欲は、すでに去勢され、政府からの援助の増大、あるいは開発への助成などの要望に取って代わられようとしているように見える。たしかに、沖縄は風化しつつある。しかし、本土の民衆の無関心さに比べれば、まだ、そこには期待されるべきなにほどかは残っている。(P176〜177)


とりたてて「ポスト・コロニアル」な視点にたたなくても、そうとう違和感の残る文章である。
「日本の国際的地位」にかかわるような「本質的な議論」(ぼくは、それが本質的だとは思わないが)が沖縄でもあまりなされなかったという事実が、なぜ「沖縄においてさえ」と形容されなくてはいけないのか。
「日米軍事再編」の是非を論じること自体は、たしかに重要で本質的ではあろう。それが「本質的」であると言えるとすれば、「日本の国際的地位」にかかわるからではなく、沖縄のような基地の集中によって大きな被害やひずみを被っている地域の人たちの救済につながるからだ。つまり、この人たちが置かれている現状の重さや手触りを離れたところに、どんな議論の重要性もありはしない。
米軍基地が集中している沖縄で、「本質的な議論」よりも、基地の移転や撤廃の是非をめぐる「局地論」が重視されるということは、「当事者は現実で手一杯だから、それが当たり前である」とはあえて言わないが、やむをえないことであり、「やむをえなく」していることに、沖縄以外の地域に住むわれわれはなにがしかの責任を感じるべきだと思う。
「本質的な議論」が大事だと思うなら、目の前に基地や米兵の存在がない、沖縄(など、基地や軍事施設を身近に持つ地域)以外の人間が、まず率先して論じるべきなのである。



『日本の安全保障全体の観点から・・・』というセンテンスの主語は、きっと「沖縄(の運動とか)」なんだよな。
沖縄の人たちがそういう観点を持つということは言わば自由だけど、それが正しいものであるとして、こちらはそういう観点なりスタンスなり「意欲」なりを持ち続けることを強要できるような立場にはいないと、ぼくなら感じるけど、著者の考えは違うらしい。
「去勢され」(精神分析関係以外では、あまり聞かなくなった表現だ)とか、「沖縄は風化しつつある」とか、本土の民衆に比べればまだ期待できるとか、沖縄にだけ基地が集中してるという事実そのものを、この著者のような人はどう考えてきたのだろう、と思ってしまう言葉ばかりである。


(沖縄以外で)平和運動をしてる人でも、「平和運動が全国的に低調になったのは、沖縄の運動が下火になったせいだ」と平気で言う人がいる。言わば一番ひどい目にあっている沖縄の人たちの行動に盛り上げてもらうことを期待するような「運動」というのは、あまり批判したくないが、とにかく情けない。
というよりも、困窮し切迫しているゆえにエネルギーのある人たちを利用して運動を盛り上げようというのは、一番よくないことであり、だけど一番ありがちなことではある。
別に「沖縄」に限ったことではないが、他人が生きている現実の状況、そこからやむをえず出てくる「力」のようなものを「道具」のように利用してしまう態度こそが、「植民地主義」というものの、もっとも根深い内面化の形ではないかと思う。