『共感の回路』再考

うつぼ公園での行政代執行のときに感じたことを書いた『共感の回路』というエントリーについて、最近、複数の方からじつに丁寧な感想を寄せていただいた。
ほんとうにありがたいと思う。


いまあのエントリーを読み直すと、たしかにあの時自分が感じたこと、考えるべきポイントのようなものが、いくつも書いてあると思う。
これからも、自分自身、この文章に立ち返って自問し続ける必要があるようだ。


ところで、感想を聞かせていただいて、ぼくが今とくに考えているのは、あそこで引いたアーレントの言葉、「被害者が加害者に対して投げかける憐れみの眼差し」に含まれるような「共感」(直接、その書物を読んだわけではないので、正確な訳文ではありません。)、という言葉の意味である。
この言葉は、正直にいうと、やはりぼくにとってずっと謎なのだ。


アーレントが、「共感」の可能性をこういうものにだけ見出したというのは、たぶん彼女が身体的(非言語的)な政治性(公共性)の可能性というものを、極端に抑圧したとされていることと、関係があるんだろう。だから、「共感」を肯定する可能性を、こんな細いところにまで切り詰めてしまうことが、妥当なのかどうかも、ほんとうは疑問がある。共同体や、階級的連帯などの集団的なものがはらむ共感に根ざした政治行動や抵抗の可能性を、もっとポジティブにとらえるべきではないか、とは思うのだ。
だがその点を留保しても、このアーレントの謎めいた表現は、やはり心に残ってくる。


ぼくが今でも思うのは、あの行政代執行の日に、抗議し抵抗した、あるいはそうしなかった人たちも含めて、野宿の人たちの、行政側の人たちに対する感情のなかに、アーレントがあの表現で言おうとしたような種類の「共感」が込められていたのではないか、ということだ。
それを「共感」と呼ぶことが適切かどうかはわからない。
しかし、ぼくが間近でみたかぎりで、あのとき行政側の人たちに抗議していた人の怒りの底には、自分と目の前の他人(行政側の人)を、「対等な」地点で見出す視点があったと思う。それが、あの怒りの実質としてあったように思うのだ。
その底にある眼差しと感情は、抵抗や抗議には加わらなかった野宿の人たちの多くにも、共有されていたのではないか。


それは、たんに相手の立場に対する思いやりということではなくて、抑圧されている相手の魂に対する気持ち、「憐れみ」というと語弊があるかもしれないが、深い共感であったのではないか。
魂のレベルでみたときには、自分と他の人間との区別は消えてしまい、自分のこととして、いや自分と相手とを同一のものとして感じ、相手の魂がおかれている抑圧の痛みを感じる。
そこから来ているとしかかんがえられないような熱いものが、あの日のあの訴えかけの中には込められていたと、今でも思う。


だが、とても大事であり怖いとも思うことは、こうした「共感」が、社会の制度から排除されている立場の人たちにしか、生じないものではないか、ということだ。
上記のエントリーに寄せていただいた感想を読んで、そう思うようになった。


ぼくがあの頃に書いたいくつかのエントリーを読み直してみると、行政の側の人たちと、排除される側の人たちとを、対称的に見てしまっている。つまり、どちらも同じ人間同士であり、立場を入れ替えてかんがえることで、理解しあえ共感しあえるはずだ、というニュアンスが、やはりうかがえる書き方になっている。
たしかに、どちらも同じ人間であり、同じ弱い立場の者である、という視点は大事だ。
だが、そのようにいうことで、みえなくなってしまう「現実」、人の心を取り囲む現実のあり方というものがあると思う。


つまり、行政の側の人たちと、排除される側の人たちとの間には、絶対的な非対称性があったということである。それは、排除される側は、上に書いたような相手への「共感」をもちうるが、その反対というのは極めて生じにくい、ということだ。
アーレントが言っているのは、まさにそういうことだろう。被害者(排除される者)は加害者(制度の側に取り込まれている者)の魂に「共感」しうるが、その逆は生じにくい(不可能ではないはずだが)。「どちらも同じ人間」だからこそ、そういえるのだ。
それは、人の心を取り囲んでいる制度という「現実」の働きを見据えることであり、そのときにはじめて、そこにいた全ての人たちに同一の魂というものの姿が、見えてくるのではないか。


もちろん、実際には行政の側におられた人たちのなかにも、心を動かされ、涙を流していた人もあっただろう。個人差があるはずのことだから、一概に言うことはできない。
ただ、ぼく自身の体験をいえば、自分はあのとき行政の側の人たちと同じく「制度」の内側に、つまり「共感の回路」の外側にいたと感じていて、その位置からは、排除される人たちにほんとうに共感することはできなかった。
それが、ぼくの主観的な体験のすべてである。


他者の魂に対する「共感」が、制度から排除されている立場の人間以外には生じにくい、という事実は、たしかにおそろしい。
制度は、そういう仕方で、制度のなかに取り込まれて自分でも気づかぬままに抑圧され続ける弱い人間と、排除されるさらに弱い立場の人間とを、分断するのだろう。


ところで、話が飛躍するが、ぼくはベンヤミンが「暴力批判論」でいった「神的暴力」というのは、ぼくがうつぼ公園であのときに触れたと思っている、このアーレント的な共感と深いつながりがあると思う。
「神的暴力」は、「犠牲を受け入れる暴力」だと書かれているからだ。被害者が加害者に対して抱く共感が恐ろしいというのは、本当はこの意味においてだろう。
「神的暴力」は、やはり自己自身に対する暴力であり、他人(加害者)に対する、魂への愛ゆえの自己の生命の絶対的な贈与、と呼ぶべきものではないか、と思う。その表現が怒りであっても、やはりそれは贈与なのだ。
だが、この贈与が、「犠牲」の受容という形をとらず、なんらかの形で制度の壁を壊す力へと向けられるべきであることは、いうまでもない。
そしてこの「壁」はもちろん、ぼく自身の内側に延びているのだ。