『当事者主権』を読みかけて

これは、書評ではないです。
このところ、他の方のブログで「当事者」という言葉を目にすることが多いし、自分もよく使っているのだが、もうひとつ言葉の用法が把握できていない。
そこで、この本を買ってみた。

当事者主権 (岩波新書 新赤版 (860))

当事者主権 (岩波新書 新赤版 (860))


いろいろなことを考えさせてもらえそうな本である。
まだ序章の「当事者宣言」というところ読んだだけだが、とりあえず思ったことをメモしておく。
まず冒頭に、こうある。

いま、障害者、女性、高齢者、患者、不登校者、そしてひきこもりや精神障害の当事者などが元気である。能率、効率がもっとも尊ばれる社会のなかにあって、もっとも適応しなかった人たちの集団、庇護と管理の下に置かれたマイノリティと言われる人たちである。そこから、自立生活運動、フェミニズムレズビアン&ゲイ解放運動など、当事者を担い手としたユニークな活力あふれる活動が生まれ、社会に大きな影響を与えつつある。


端的な話、ぼくが「当事者による社会運動」と聞いて即座に思い浮かべるのは、在日朝鮮人などの民族的なマイノリティーの運動とか、部落解放運動である。さらに言えば、反原発とか、反基地闘争というような住民による運動。
そういうものは、上に例示されたなかには含まれていない。これは、なにか理由があるんだろうか?
「当事者による運動」と聞いて、在日の運動や部落解放運動しかイメージできないということは、もちろん問題だろうが、そうしたものが例のなかにあがっていないということは、やはりぼくには意外だった。
もっというと、労働運動も、そのなかに入るのではと思うが、それもない。そう言えば、消費者運動もない。そういう既成の政治的・組織的な運動(必ずしも、左翼的ということでもないと思うが)というのは、「当事者による運動」には入らないのだろうか。
これが、疑問に思った点である。


それから、「人はだれでも当事者になる可能性を持っている」と書いてある。やはり、ここで言われてる「当事者」ということは、「属性」とは重ならないのだろう。
それについて、こうも書かれている。

誰でもはじめから「当事者である」わけではない。この世の中では、現在の社会のしくみに合わないために「問題をかかえた」人々が、「当事者になる」。(p9)


「当事者」という語のあとの、「である」「になる」には、傍点がふってある。
この引用文によると、人が「当事者になる」のは、現在の社会のしくみとの関係において、その人のもっている属性が「問題」とされてしまうことによってである。だから、社会のしくみを変えれば、「問題」は消え、「当事者である」ことも消える。
社会を変えるということはいいとしても、その人がその人であることにおいて、その人の「属性」のもつ意味や重みというのは、どうなるんだろう、というのが二つ目の疑問だ。そういう本質主義みたいなものは、すっかり否定されてるということだろうか?


このことに関連すると思うが、「当事者学」ということについての部分では、注目すべきことが書いてある。

専門家は「客観性」の名において、当事者の「主観性」を否定してきた。当事者学があきらかにするのは、当事者でなくてはわからないこと、当事者だからこそわかることがある、という主観的な立場の主張である。(p16〜17)


そうだろうとは思うが、「当事者だからこそわかることがある」という主張は、どこか本質主義的ではないだろうか。このことと、二番目の疑問としてあげた点とが、どうつながるのか、まだよくわからない。
つまり、こういうことだ。
社会のしくみがかわって、その人の「属性」が「問題」ではなくなったとき、「当事者である」ことと一緒に、この人の「主観的な立場」も消えるのだろうか?つまり、当事者の主観的な生は、完全に社会によってのみ構成されているのか?