今日の社会運動と「欲望の断念」について

テレイシアス  あなたは私の気性を責める、が、あなたのうちに住むあなた自身は見えぬらしい、そして非は私にあると言う。
(ソポクレス『オイディプス王福田恆存訳)


社会運動とひとくちに言っても多岐にわたる。そのなかには、人に関わるようなもの、特に社会のなかで差別や抑圧を被っていたり、不利な条件を生きている人たちに関わるようなものもあるし、環境保護や動物愛護、消費者運動、また反戦運動など、直接人間を対象とはしないものもある。
だがいずれにせよ、運動の主体となる人が、他の人間と関わりながら、他人を助けたり環境を守ったり、社会を変えていこうとする営みであることは、共通しているだろう。
つまり、直接の対象が人間であれそれ以外であれ、人と人との関わりというものが、あらゆる社会運動の基礎にあると言っていいはずだ。


これは当たり前のように思えるが、ある時期まではそうでもなかった。
ある時期というのは、具体的には冷戦の終結、もしくは「大きな物語」(リオタール)の終焉ということだ。それまでは、党(党派)の組織の規則や、理念の共有といったことが、社会運動の運動体の精神的(非物質的)な実質を構成する主要な要素だと思われていた。
こうした、いわば象徴的な機能が力を失うにつれて、社会運動における「人と人との関わり」という想像的な側面のリアリティが、浮かび上がるようになったと考えられる。

運動における他者性の喪失?

人間同士の想像的な関係という側面が露呈するという、現代の社会運動の特質からくる困難は、一般的には運動体内部での人間関係の混乱(転移による)としてあらわれるが、上にあげた「人に関わる」タイプの運動の場合には、それのみならず、運動の主体とその関わりの対象となる(多くは社会的な少数者の)個人及び集団との間の、距離の混乱の生じやすさとしても現れることになる。
この場合、問題は「当事者性」と「他者性」に関わるといえるだろう。


たとえば、これらの社会的な少数者の集団のうち、その社会的な属性に応じて、元来はその集団と同じ属性を有していない運動主体が、自らの選択によって(属性の獲得という意味で)「当事者になる」ことができる場合と、そうでない場合がある。
たとえば、富裕な家に生まれた学生の活動家が、みずから工場労働者となって運動する、といったことは昔からよくある。また、日本国籍の所有者であれば、たとえば国籍を変えることで、自分が「在日外国人」という法的な地位になることは可能だろう*1
しかしたとえば、身体的・精神的なハンデや、「民族的(血縁的)」な差異にもとづく属性の場合には、それは困難だろう。


ところで前者の場合にも、それは本当に「当事者(マイノリティー)になった」といえるのか、という疑問は当然生じるだろう。
というのは、社会問題の切実さは、たいていその当事者が置かれた状況(属性)が当事者自身にとって選択不可能な所与の条件と考えられることに関係しているので、当事者になることを「自ら選ぶ」ことができたというのでは、当事者が経験しつつある本当の切実さには届かない、と考えられることが多いからだ。
だが、自ら選んで困難な状況に身を投じたという意味で、この運動主体は、当事者としてではなくとも、支援者としての実存的な切実さを生きていることは疑えない。別の言い方をすると、この人は運動主体としては、一種の当事者性を生きているともいえる。
この人は、おそらくこの自分一個の当事者性において、運動の対象である他人たちにかかわるしかないという限界があるわけだが、突き詰めて考えれば「自分一個の当事者性」(実存的な切実さ)以外に当事者性というものが存在するのか、という反問も成り立つ*2
だがそのように言ってしまうと、社会的な属性にまつわる問題は消えてしまう。つまり、他者はどこにいるのか、社会はどこにあるのか、誰のために運動するのか、ということになってしまうだろう。


ここで出てくる答えは、「自分のための行動と、他人のための活動とは重なっている」という考え方だ。他人に寄り添い、他人を救おうとする自分の活動は、そのまま(つまり、理念や社会性を媒介することなく)自分の実存的な苦悩を解決する道でもあるはずだ、という考えである。
社会運動についてのこうした考え方は、上に書いた「理念」の失効という歴史的な事態を受けて、徐々に強まってきたものではないかと思う。
運動主体自身の実存的な切実さが、社会的な属性という概念の持つリアリティを上回ってしまうという事態は、象徴的な機能の失効が生じなければ考えられないものだったはずだ*3
今日では、社会運動における対象の「他者性」は、少なくとも従来のような形では保証されにくくなっているというのが、ポスト工業化社会の真実ということになるのではないか。


このことから生じる大きな弊害として、次のような批判がありうる。
こうした他者性の喪失により、運動主体は自己の内部にある矛盾の原因を、社会の構造にのみ見出すようになる。その場合には社会への認識に誤りがなかったとしても、自己内部の矛盾は問題化されることが回避されてしまうであろう。
自己の内部にある矛盾は、その原因が社会構造のなかにあるとしても、それを解決する場は自己の実存的な生の内部以外にはありえない。社会を変革すること、そして他人を救済することは、それとは別の事柄である。
社会運動が、運動主体の自己内部の矛盾の解決に直面しないために、全てのエネルギーを社会構造の批判と変革にのみ向けてしまうという状態にあるなら、こうした運動のあり方は他人を救うことは出来ても、主体自身を救うことは決して出来ないというべきだろう。
より大きくいえば、この混同がある限り、社会構造はいったんは変えられても、矛盾に満ちた社会は再生産されるしかない。
このような批判には、たしかに一定の説得力がある。


自己の実存的な問題(苦悩)と、他人あるいは社会の問題とを無媒介に重ね合わせてしまうという傾向は、「人に関わる」タイプに限らず、今日のあらゆる運動の運動主体にみられる特徴のひとつではないかと思う。
この特徴から、上に書いたような運動の主体的な実践上の混同も生じるし、運動体内部の転移的な人間関係の混乱も生じてくるであろう。


だがしかし、こうした混同や混乱が生じやすいということは、今日の社会運動の脆弱化や閉塞、またその非正当性を意味しているだろうか。
実はぼくが考えたいのは、そのことなのだ。

運動における欲望の役割

先にも述べたように、社会運動の非物質的な基礎が、人間同士の想像的な関係にあるという事実が露呈したことは、歴史的な必然によるものだと考えられる。
想像的な関係とは、言い換えれば自己と他人との欲望をはらんだ関わり合いということであろう。
上記のような混同が生じるのは、運動主体の、運動の対象である他人との、あるいは運動の仲間である他人との関わり合いが、強い欲望に基礎づけられているためだ。
そのことは、もちろん従来から変わらぬ事実であるはずだが、「理念」や「組織の原理」のような象徴的な機能が力を失った現代では、こうした欲望が葛藤へと発展した場合に、それを統御もしくは隠蔽することが困難なのである。そこで、転移による混乱や混同が増大する。


このことから、現代の社会運動に特徴的なこの欲望からくる混同や混乱を批判して、運動主体の「欲望の断念」、つまり象徴化(去勢)の必要を説くような主張は、運動内部(党派の指導部や、先行世代など)のみならず、社会(市民)運動を批判したり揶揄したりする運動外部の言説においても有力なものとなっている。


ありていに言えば、「もっと大人になれよ」という物言いだ。


だがぼくが思うのは、この欲望こそ、じつはかつてその役割を果たしていた「理念」以上に、人を他人の生と死への関心に差し向ける原動力になりうるものではないか、ということだ。
そうであるなら、本来他人の生と死への関心にもとづく行為であるはずの社会運動の過程において、この欲望の存在自体が批判されたり抑圧されるいわれはない。


欲望の機能は、如上の自己の内部の問題と社会あるいは他人の問題との混同に見られたような、あるいは運動体内部の人間関係が転移的になることから生じる「同質性の重み」と呼べるような混乱におけるような、同一化による他者性の消去を帰結するばかりとは限らない*4
他人との関係への欲望の強さはまた、他者の他者性の確保への道を開く可能性を持っているはずだ、と考えられる。むしろこのとき開かれる他者性(社会性)こそ、人が持ちうる本当の他人との関わり合いを可能にするものではないのか。
冷戦期のような「理念」が崩壊した後に生じた、現代の社会運動の特徴的な混乱(脆弱さ)のあり方は、むしろこの「欲望」が持つ可能性をあかるみに出すものであるとも考えられるのだ。


したがって、今日の社会運動にみられる上記のような混迷を、「欲望の過剰」ゆえに非難することは間違っているだろう。
問題はむしろ、こう問われるべきなのだ。社会運動に関わる人々の欲望の力を、こうした混同や混乱による他者性の希薄化と同質性の回復へと差し向けてしまうものはなんなのか。誰がこの欲望を捩じ曲げ、その可能性と力を減殺してしまうのか。
もっとはっきり言えば、誰の欲望がより深く想像的(転移的)であり、抑圧的なのか。

「社会的な撤退」と今日の社会運動の性格

ここで非常に示唆的なのが、『Freezing Point 』のこのエントリーだ。


ここでは、田崎英明氏の次のような一節を含む文章が引用されている。

ナルシシズム=想像的なものに対して、やがて、象徴的なものが対置されるようになるが、象徴的なものは単純に共同主観性とか社会性と同一視されるべきではない。象徴的なものとは、他者から引き篭ること − それが去勢である − を通じて開かれる共同性にかかわっている。通常の意味での社会はむしろ、想像的である。


通常の意味での社会こそが想像的であり、象徴的なものは、じつはある種の社会的な撤退を通じて開かれる共同性にかかわるのだ、という指摘。


ぼくは、今日のいくつかの社会運動が目指しているような共同性が、ある種の社会的な撤退を基礎としているのではいか、と考えている。
それは、こういうことだ。
今日の社会運動に見られる大きな特徴のひとつは、各運動体が一般社会のルールや秩序から離脱して、欲望にもとづく人間同士の関係性により強く依拠した、小規模で一見孤立的とも思える共同体を形成する方向にあることだ。
ここで一般社会のルールや秩序とは、かつてなら「理念」や「組織の原理」と呼ばれたであろうような、運動内部にも外部の社会にも共通して通用する、「通常の意味での」象徴的な枠組みのことである。
運動体の多くが、そうした枠組みから離脱し、それに依拠しないような共同体を作ろうとする傾向を持っていることが、今日の社会運動の一見孤立的で分散的な性格のひとつの理由になっていると思われる。
こうした離脱を、「通常の意味での社会」からの撤退ととらえられないかと思うのだ。


上に引いた田崎氏の考えを参考にするなら、この撤退の理由は、(特に今日では)「通常の意味での社会」が、あまりにも想像的だからである。
「理念」のような象徴的なものがその機能を失調させたことにより、たんに想像的でしかありえなくなった(イメージや、「格付け」といった転移的な原理だけが支配する)一般社会の重圧と混迷を逃れて、真の意味で象徴的な共同性を希求する人々が集う「脱社会的」とも呼べる空間、今日の社会運動の性格の一面を、そのように定義することができるのではないか。


おそらく、「同質性の重み」とぼくが呼ぶものに関係する、あの運動における混迷が生じるのは、「通常の意味での社会」が持つ想像的な力の重さに原因があるのだ。
この外側の社会から来る重さが、人々を社会的な撤退と「脱社会的な空間」としての社会運動へと向わせ、同時に運動に関わる人たちの欲望を、混迷のなかへと導くのだと考えられる。


だが先に述べたように、欲望そのものは、むしろ他人の生と死に対する関心の源として、真に象徴的な共同性を開く力を秘めたものだと、ぼくは主張したい。
それなら、今日の運動にたずさわる人々は、(それらの運動を、あるべき共同性や社会性につながる試みととらえる限り)「欲望の断念」を要求されるべきではない。
欲望を断念すべきなのは、むしろわれわれ、「通常の社会」に属する者たちの方なのだ。

*1:憲法で国籍離脱の自由は保障されているわけだし。

*2:ここで当然ながら、「当事者性」と「属性」とはどのような関係にあるのか、という問いが生じてくるだろう。おそらく、「属性」から「当事者性」への、重心の移動という事態がどこかの時点で生じたはずだ。

*3:同じ時代的な変化は、おそらく「当事者自身による社会運動」においても同様にあらわれていると思うのだが、ここでは詳述しない。

*4:ふつう、想像的な領域というのは、そういうものと考えられているのだろうが。