ボランティア

こちらのエントリーが、すごく面白かったので、ふれておきたい。
『世界、障害、ジェンダー、倫理』さん。


http://d.hatena.ne.jp/x0000000000/20060319/p2

何よりも重要なのは、こうした共同体主義が小さな政府論と結果的に符合してしまう点にある。つまり、善意のボランティアというものを称揚する結果として、手厚い社会保障を制度化したくない側と親和的になり得るのだ。


これは、すごくよく分かる。重要なのは、「結果的に符合してしまう」という点だ。
実際、イギリスでも日本でも、NGONPOが勃興して数が増えていった時期は、「小さな政府」をめざすサッチャーイズム的な改革の時期と重なっていたらしい。ボランティア的に活動している人は、そうした改革を推し進めるつもりはないのだが、結果的に政府や行政サイドの思惑に取り込まれる形になる。

それは、現在の社会が、「誰か特定の人の善意に満ちたコスト負担」を隠蔽しているからであり、特定の人が過度なコスト負担をしていることを前提にした社会であるからこそ、そこを変えなければならないと考えるからだ。実際にコストを負担しているという点において、僕は負担する人たちに対し尊敬の念を禁じ得ない。またしかし同時に、彼らだけにコスト負担を負わせる社会を僕は不正だとも考える。


すごく正しいことが書いてあると思う。
ぼくが思うのは、今の社会ではボランティアをしている人たち自身がある種の「当事者」(過剰なものを背負っている人、という意味で)になっているのではないか、ということだ。この人たちにものすごい負担なり圧力がかかる社会になっている、ということが現状だろう。


このエントリーを書いたときに考えたように、現在の社会運動には、活動を行っている人自身の自己規定に関わる、特有の困難さがあると思う。
それには不可避的な面もあるが、重要なのは、この困難さをより大きなものにしているのは、この人たちではなくて、一般社会の側だということだ。
ある特定の人たちを、過度の負担と困難さのなかに追いやり孤立させる社会になってるということが問題なのであって、その仕組みを変えていくことがなにより根本的だ、ということだろう。