『フェミニズムはだれのもの?』・その2

昨年の春に出版されたフリーターズフリー対談集『フェミニズムはだれのもの?』については、先日もその一部に関して書いたが、全体を読み終わったので、簡単に思ったことをメモしておきたい。


まず、一番気になったことだが、最初の「”おひとりさま”と”フリーター”は手を結べるか」という座談会の、はじめの方で大澤信亮氏が、こういうふうに言っている。

ただ、それとは別にもう一方で問いたくない理由があって、それは、僕が女性の問題を考えるときに、どうしても手放しで肯定できないというのがあったんですね。その肯定できなさというのは、もしかしたら後で戻るかもしれません。とにかく、そこを自分でもあまり見たくなかった。もちろん、同じ社会に暮らしている人間で、不平等な状況に置かれている人がいるならば、そこに対してはできる限り、自分の偽善を問うかたちでコミットするのが当然だと思うんです。(中略)僕はその手放しで肯定できないという、女性の問題への違和感を持ちながら、自分なりに思うことを言ったり書いたりすることで、問いを深めるとか問いを共有してもらう、さらに願わくば、お互いが変わっていければいいなというスタンスで関わったつもりです。(p31)


この「手放しで肯定できない」感じというのは、この後の部分では語られていないように思ったが、私には関心のあるところである。
この前後の文脈から考えると、フェミニズムの主張に対して、社会のなかで不平等に置かれている人の主張には、優位にある属性を持つ人間としては、自分に対する批判を含めて*1コミットするのが当然なのだが(肯定するべきだと思うのだが)、どうしてかすんなりとそれが出来ない、自分のなかでつまづくというか、止まってしまうところがある。
そんなことを大澤氏は言いたいのではないかと思う。


そうだとすると、その感じは、私にもよく分かる。
ただ、たぶん私と、大澤氏(や、たぶん杉田氏)が違うのは、私の場合、その自分のなかの抵抗とか障害物と呼べそうなものに、積極的な意味を見ようとしてないということだろう。
それに対して、大澤氏(たち?)の場合には、その「自分でもあまり見たくなかった」部分にこそ、何か大事なものが隠されてると、考えているのだと思う。
そのように大澤氏(たち)が考えることは、誠実なことだし、たしかにきっと当たっているのだろう、とも思う。


実際、たとえば、ぼくは未読なのだが、日本人と朝鮮人との関係において、この互いのなかにあるネガティブな感情の問題を重視した日本の作家も過去には居て、重要な仕事を残してるということも聞いている。
私は、自分の経験に関連づけて、これを「感情の問題」と言う風に決め付けて言っているわけだが、「いや、それは感情の問題ではなく、フェミニズムなり朝鮮人なりの側に、反省するべきものがあるのだ」という反論もありうるだろう。
ただ私は、それよりも、それが「感情の問題」だからこそ重要だ、と言えるのではないかと思うのだ。


言葉になりにくい(合理的に述べにくい)、言い換えれば「自分でも見たくない」と思うような、そういう「憎悪」や「反感」というものは、私のなかにもたしかにあると思うし*2、それが「最も重要なことだ」とまでは言えなくとも、ないがしろに出来ない、すべきでないことの一つだという気はする。
実際、フェミニズムや差別撤廃運動に対する反感の重要な要素は、それらの運動が「正しさ」を突きつけることによって、この「合理的に述べにくい」部分、合理化(言語化)してしまうと変質してしまうような私の心の部分を抑圧・否定してくるかのように感じられるからだろう。


ただそれは、私に言わせると、フェミニズムや差別撤廃運動というものも、そういう人間の心の「合理的に述べにくい」部分を守っていこうとするからこそ生まれた運動のはずである。
つまり、心というのは、人と人との生きた関係性のなかでこそ生じるものであり、差別が当然のように容認されてる社会では、その関係性が損なわれないはずはないから、それを無くすような働きかけを行って(現実に支配している差別的な力に抗って)いくことで、この「心」の領域を守ろうということが、これらの運動の、いや社会運動一般の芯にあるものではないだろうか。
だから、一方で差別のある社会を容認・維持しておいて、もう一方で「心」(合理化できないもの)の重要性を主張するというのは、矛盾してると思う。


「正しさ」と、(言わば)「心」とか「言葉にならない部分」との、この二分法は、一種の罠だろうと思う。
そういう場合、「正しさ」を排除して、差別的な社会秩序を温存しようという力が、この国の社会では特に強く働いていると思うからだ。
「正しさ」が排除されたり格下げされたような場所で、「心」の領域(生きた人間関係の領域)が守れるはずはない。


これは言い換えると、「正しさ」(差別撤廃運動など)に対する、それ自体では悪意のない(誠実であろうとする)反発も、知らぬ間に差別的な意識や行動へと取り込まれてしまうほどに、この国の社会の差別的な構造は根深い、ということでもあるだろう。
「正しさ」と見なされるもの(そもそも、自分のことを絶対的な正義だと考えているマイノリティや運動家って、実在するのか?)への反発や疑問は、それが合理的に正当なものであろうとなかろうと、消し去るべきでない(容認するというわけではなくても)重要なものを含んでいることが有り得るのだが、ただそれが、「心」とか「誠実」というような価値観によって格上げされると、非常に危険なことになる。
この国は、まだそういう国なのだ。


「感情の問題」、私自身の問題として言えば、女性や朝鮮人に対して潜在的に抱いているかもしれない憎悪や反感などのネガティブな感情を直視することは、無論大事だ。
また、運動の硬直性と呼ばれるものに対する批判も、されることは当然だろう。
だがそれよりも忘れるべきでないことは、私たちのこの社会では、支配的な力に対する警戒を常にもっていなければ、とりわけ属性が異なる(非対称である)個人の間に「公平な」関係が成立することは、とても困難だということ、つまり私たちは容易に差別や排外的な権力の作動に加担してしまうだろう、ということである。


他の対談についても触れるつもりだったが、長くなったので今日はこれだけにします。

*1:大澤氏の言っている「偽善」という語のニュアンスが、ちょっと引っかかるが

*2:最近では、去年のサッカーワールドカップの時に、そういうものを自覚した。