「告白」について

アンテナにリンクを貼らせてもらってる『あたしはレズビアンだと思われてもいいのよ』さんのエントリーを読んでたら、3月6日付の朝日新聞の記事として「カムアウトされた人向けの無料電話相談」ということが書いてあった。
カミングアウト、つまり告白された人の側ということだから、ぼくは最初、嫌な感じの男性に「告白」されたり、つきまとわれて困っている女性のための相談かと思った(特定しててすみません。身に覚えがあるもので。)のだが、そうではなく、自分がホモセクシュアルであると身近な人にカミングアウトされて戸惑ったり悲しい気持ちになっている人向けの相談窓口、ということのようだ。
なるほど、そういうことがあるのか。
この身近な人というのは、まあ親とかもあるのだろうが(この場合も深刻なケースがあるだろう)、すぐに思い浮かぶのは、やはり自分が思いを寄せている異性に、そういうふうに告げられた場合だ。
これは、自分だったら、どう感じるだろう?


こないだ、本屋で『GO』という小説を立ち読みしてたら、主人公(だと思う)の在日の男の子が、自分が在日だということを好きな女の子にカミングアウトして、偏見にもとづく恐怖心を告げられる、辛い場面があった。
でも、この場合はそれとはやや違っていて、「性的な指向があなたの属性には向いていない」という意味を含んだメッセージを、自分(聞き手)自身が投げかけられることになるわけだ。
もちろん、カミングアウトする側には、相手を否定したり、傷つけようとする意志などないわけだが。
いや、これだと普通の告白で、ふられる場合と一緒だな。


自分の性的な指向をカミングアウトするということは、相手が性的な感情を持っている場合には、関係性の問題になってくる。ここが、他の属性をカミングアウトすることとは違う点で、つまり相手が傷つけられてしまう(なんの非もないのに)ことになりうるわけだ。
言い換えれば、「する側」にとっても、「される側」にとっても、重く辛い、ということになる。もし「された側」が、そこから同性愛の人に対する差別みたいな態度をとれば、それは非難されるべきだろうが、傷ついてしまった気持ち自体は否定しようもないし、どうにもならない。
「カミングアウトなんてするなよ」とは、まさか言えるわけないし。


また、親や家族が動揺したり、ひどいショックを受けたりという場合もあるだろう。
セジウィックの『クローゼットの認識論』では、同性愛の人がカミングアウトする場合と、ユダヤ人(セジウィックユダヤ人なので)がカミングアウトする場合との違いが、詳細に検討されているが、そのひとつに、同性愛の人の場合には、家族にもカミングアウトできない場合が多く、カミングアウトしても親などがそれを受け入れられず、家族から孤立してしまうことが少なくない、と書いてあった。
ただ、在日の友人の話を聞くと、そういう種類の難しさは、在日の場合などにもやはりあるらしい。つまり、「親が知らない」ということはないだろうけど、その先のアイデンティティに関係する生き方の問題では、自分の目指す生き方と親の考えとが食い違って葛藤を生じる場合が少なくない、ということだ。


ちょっと話がそれたが、たぶん、「された側」が一番不満に思ったりすることは、「どうして今まで黙ってたの?」ということだろう。
だが、それでカミングアウトした当人を責めるというのは、やはり(少なくとも)一般論としてはできないわけで、だからこそ上記の「無料相談」のようなサービスが必要なのだろう。


いずれにせよ、カミングアウトする側、される側という、双方の当事者個人だけが負担を背負わされたり、傷ついてしまうというのは、やはり不合理だ。
普通にホモセクシュアルであることを公言できるような社会であれば、こういう難しさが生じるわけはないんだから。
もちろん、それは在日とか、他の問題も一緒だけど(上の『GO』の話でも、女の子を非難して終わったんではなんにもならない話だろう)。


「告白」という日本語の曖昧な用法の問題とか、いろいろ書きたかったけど、今日はこのぐらいにします。
かんがえだすと、いくらでもかんがえてしまうし、かんがえつくせないようなことだろうと思うけど。
以前にジョン・セイルズの『リアンナ』という映画のことを書いたエントリーを、下にリンクしときます。


http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20050323/p1