ベックのカフカ批判

きのうの記事のなかで、エヴリン・T・ベックという有名なカフカ研究者のインタビューが、粉川哲夫著『カフカと情報化社会』という本に収められていることに触れた。



この本は、いまあいにく手元にない(ちょっと入手しにくいと思う)のだが、数年前これを読んだ時に、詳細なノートをとっていた。主眼は、ベックによる鋭利なカフカ批判の紹介である。現在の社会に問いかける迫力を持ってると思う。
一方、ぼくの感想は、今読んでも、そう悪くないというか、今よりちゃんとしたことを書いてる部分もあるほどなので、ほとんど修正せずに、そのまま下に載せようと思う。
ぼくがカフカを擁護してるのは、自分を擁護したい気持ちからでもあるのだろう。また断罪に同意してるのも、同じことである。
だがまた、12月6日付けの文章の最後に結論的に書いたように、ベックのカフカというか、文学に対するラディカルな批判のあり方には、何か非常に(悪い意味で)暴力的なものを感じることも、(今なお)事実である。

以下、04年にとった自分のノートより

粉川哲夫著『カフカと情報化社会』に収められた、著名なカフカ研究者エヴリン・T・ベックへのロング・インタビュー「カフカとポリセクシュアリティー」は、ぼくには非常に興味深いものだ。
ベック女史は、71年に出版された『カフカとイディッシュ演劇』という本で、カフカの作品におけるイディッシュ演劇の強い影響を立証し、カフカユダヤ人としての複雑な意識という側面からその文学を捉えるという視座を切り開いて、カフカ研究に大きな転換をもたらした人だ。三原弟平も書いていたように、これは、カフカと民族や集団性との関わりが論じられるようになる契機としても重要な出来事だったようだ。
このインタビューで面白いのは、ベックがその後、カフカユダヤ人としての民族的な同一性という視点から、いわば必然的に展開して、フェミニズム批評、そしてレズビアンの立場からのカフカ読解とカフカ批判というところへ移行したということである。
彼女の主張は、ぼくには「アイデンティティー論」的な過激さが強すぎる気もするが、カフカの文学が本質的に持っている否定的な傾向を正確に捉えているという点では、きわめて誠実なカフカの読み方をしていると思う。


彼女はこのインタビューのなかで、カフカの主人公たち、及びカフカ自身の男性中心主義、自己中心主義的な(この両者は同根的だという理論なのだろう)思考を厳しく批判すると共に、カフカのホモエロティックな性向を指摘し、彼がそれを抑圧し、口外することを最後までためらったことが、曖昧さや仄めかしやなぞめかした表現に満ちた彼の作品の独特さ(ベックは、「文章の重苦しさ」という言葉を使っている)を生み出したという見方をしている。たしかに、こうした表現は、カフカの文学の重要な特質をなすとぼくも思うし、ベックの指摘は、ぼくの直観と一致するものだ。
ベックはその上で、次のように言う。

カフカには男性に対する非常に強いホモエロティックな衝動があり、ユダヤ文化にひどい不快感を抱いていて、ユダヤ文化を恥じていたと私は考えるのです。


これは、ベックのカフカにたいする捉え方を集約して示している表現だ。彼女は、ユダヤ人であること、表現者であること、同性愛者であること、また「母国語」を持たない存在であることなど、カフカとのいくつもの共通点を拠り所にカフカへの批判を進めていくわけだが、そこには当然限界もある。


しかし、カフカの作品に対しての次のような彼女の態度は、左翼としてきわめて正しいものだと思う。

ですから私はカフカを、そうしてはいけないネガティブな例として利用するのです。グレゴール・ザムザを御覧なさい。一生働きずくめですり減って、内部には人間性のかけらさえ残らなくなってしまった人間、そしてついには虫になってしまった人間を御覧なさい。これがこういうふうに生きてはいけないということなのです。つまり、私がカフカを利用しているのは、カフカを「裏返して」、カフカの内面を曝け出すようにすることなのです。かつてあるシンポジウムで話をしたときのタイトルは「カフカを読むことは精神衛生に有害」というものでした。若い、感受性に富んでいる人がカフカを読めば、その世界に浸り切って、出口がない、逃げ道がないと決めてしまい、虫けらのようになって殺されてしまうでしょう。非常にネガティヴな、ニヒリスティックな世界観にはまりこんでしまうかもしれないということです。
私がカフカについて語り続けている理由の一つに、カフカが大学で広く教えられているということがあります。カフカは古典になっていますからね。カフカを読む人に、こうした考え方に染まってもらいたくないというのが私の希望なのです。私がカフカの話をすると、女性がやって来て、「カフカのようにしたことは一度もありません」と言うのですよ。以前はなぜだか分かりませんでしたが、今はよく分かります。と同時に男性も、カフカのようにしたらダメで、カフカとは別の生き方をすべきであると理解する必要があると思います。


これだけ深い愛情を持って、カフカとその文学の本質を掴み取った人がかつてあったろうかと、率直に思う。
これはまた、男性中心主義の本質である「他人を機能としてしか見ない生き方」に対する批判の言葉であり、「ひきこもり」文学としての『変身』の本質を言い当てた言葉であり、カフカ作品の反動性、と言って言いすぎならその自己否定的(ニヒリスティック)で非社会的な本質を衝いた言葉である。


ところで、ではどのような点をベックの「限界」であると、ぼくは見るのか。
やや長くなるが彼女の発言を再び引用してみよう。まず、カフカの作品における女性の役割に関して、彼女はこのように語っている。

女性の登場人物はごくごくありきたりの看護婦とかメイドといった、男性に従順で、男性に対して情動的な女ばかりで、感情的に、あるいは性的に男性を補助するだけの役割です。女性は道具であり、奉仕するものです。女性の役割はそれだけで、登場人物間で主要な事件が起きるのは男性と男性の間だけで、男性と男性の間だけ興味深い闘いが生じます。女性はただ機能を果たすだけで、その声を聞くことすらありません。カフカの小説に登場する全ての女性のなかで重要な人物といえば、晩年の短編に出てくるヨゼフィーネだけです。でも、そのヨゼフィーネさえもすぐに姿を隠して、男性の話し手が彼女に代って話をすることになります。ですから、カフカの作品ではジェンダーがたいへん重要なものになっていることを指摘することが大事だと考えるようになりました。カフカの宇宙は男性の宇宙であり、女は機能的なものだけなのです。


カフカの文学は強くジェンダーに染まっている」という、このベックの指摘に異論はない。さらに続けて、対話の相手であるインタビュアー役の粉川哲夫に、こう語りかける。

このことを以前お話ししたとき、あなたは私と同じような観点からカフカを見始めているが、女性に対する見方は私と違っていて、カフカは男性も同じように見ているとおっしゃっていましたが、私は、カフカがホモエロティックな(ホモ的な性意識・情動を持った)イマジネーションを持っていて、カフカの世界は男性社会の世界だと見るようになったのです。これは言い換えれば、カフカを本当に評価するのは男性だけであるということです。


この最後の言葉は当たっていると思うが、粉川とベックは違うことを言っているわけではないだろう。女性を「交換財」、つまり機能としてしか見出さないことが男性中心主義の本質なら、こうした視線が同性はもちろん、全ての存在者に対して向けられないはずはないからだ。
カフカが同性愛者であったがゆえに、カフカの世界が男性社会だというベックの指摘はおかしい。問題は、カフカが自己の同性愛者性を抑圧したことであろう。セジウィックが言ったように、この傾向(ホモソーシャル)は男性中心主義的な男性社会全体の根底をなしているものであり、カフカ自身がホモセクシュアルであったかどうかということとは関係がない。ベックはホモソーシャルホモセクシュアルとを分離して考えていないために、混乱が生じているのではないだろうか。
むしろ、創作のなかで、カフカは自身の根底にあるこの傾向を暴き出すことにより、ホモソーシャルな世界の核心に迫ったといえるだろう。それによって彼が自身の男性中心主義から自由になったかどうかは分からないが、こうした歪んだ現実の社会のあり方を生々しく描き出したことはカフカの業績であろう。個人カフカの生き方を批判するのはかまわないが、作品の価値をこうした視点から断罪することはあまりにイデオロギー的である気がする。
しかし、それも若者たちがカフカの魅力のとりこになることで「虫のように殺されて」欲しくはないという、ベックの左翼としての啓蒙的な愛情によるものと思えば、一概に否定もできない。


さらに、次のように発言は続く。

カフカには男性に対する非常に強いホモエロティックな衝動があり、ユダヤ文化にひどい不快感を抱いていて、ユダヤ文化を恥じていたと私は考えるわけです。というのは、ユダヤ文化には男は結婚しなければならないという考え方があって、(中略)日記にも、男と男が争ったり、対立したり、男同士で肉体関係を結ぶような物語の素材が書かれています。カフカはこの願望を表明する欲求と実際に闘ったのでしょう。しかし、結局それを言い出すことはできませんでした。カフカは常に謎めいた書き方に終始するわけです。
 ユダヤ人のことにしても、書いたもののなかで「ユダヤ人」という語を使っていませんが、ユダヤ人であることとの闘い、ユダヤ人が意味するものとの闘いは、カフカの書いたもののいたる所に見てとることができます。それにカフカの生きていた時代は反ユダヤ主義の傾向が強い時代でした。だから手紙のなかで時折、「ユダヤ人なんか殺してやりたい、ユダヤ人というのは不快極まる」なんて書いてもいるくらいです。自分はユダヤ人なんかではない、とうそぶいていることもあります。ホモセクシュアルな願望に対しても同じ扱いをしていて、これを圧し殺すようにしたと思いますね。圧し殺したために、カフカの文章に重苦しさが強く加わったのでしょう。


 カフカのなかで、自分のセクシュアリティーに関すること、及び自分の民族性に関することで強い葛藤があり、それが彼の文学の独特な性質に関係しているというのは、うなづける主張だ。それらの葛藤が、自己否定の衝動と関係するものであるらしいというのも、カフカの作品の読者であれば同感できるだろう。
しかし、繰り返しになるが、こうしたカフカの内面的な葛藤が彼の魅力的な文学を生み出したのだということも間違いないのである。
このインタビューを読むと、ベックにはユダヤ人として、またフェミニストレズビアンとして、果敢に自己を肯定し、積極的(ポジティブ)な生き方を貫いてきたという意識が強くあり、こうしたフェミニスト活動家(同時に、ユダヤ人としての強い自覚を持った)としての価値観で、カフカの文学の価値を断定してしまっているようなところがある。それは、既成の文学的制度に対する彼女の闘争であるということは分かるが、カフカがあれだけのテキストを書いたということを軽視しているかのように思えるのは、ぼくだけだろうか。
言語的、また民族的なシチュエーションにおけるカフカと自分との相似を語った後で、ベックはこう述べる。

それに比較的最近、15年くらい前になるでしょうか、自分がゲイ、レズビアンであることが分かりました。現在の社会はこれを認めていないために、人に話すのは難しい面がありました。しかし現在アメリカには強力なゲイの解放運動があって、幸運にも、私はその一翼を担うことができ、自分が一人ではなく、孤立しているのではないことを教えられました。何かを得ようとする闘いのなかで、数百、数千の味方ができます。しかし、この運動を体験しているとき、カフカを今までとは異なった目で読むようになりました。すると、イーディッシ演劇によって、カフカのイーディッシ演劇の見方が理解できたように、私自身が同性愛者であることによって、カフカの闘い、カフカが話せずして話そうとした闘いが理解できるようになりました。これは「話そうか、それとも話すのをやめようか」と私自身が毎日自分に問い続けてきたからこそ分かることなのです。そんなわけで、ユダヤ人であることは非常な苦痛なのです。カフカはこの種のことと闘ったのです。ですから、私自身と同じ闘いをカフカのなかに見るような思いがするのです。ただし、私はカフカと自分を同一視もしますが、同時にカフカを批判したり、カフカを暴こうともするわけです。このようなものが私の考えている秘密なのです。


これは、驚くほど率直な言明だと思うが、やはり彼女はカフカを自分にひきつけて読みすぎていると思う。また、個人、生活者としてのカフカに対する判断と、カフカの作品に対する評価との混同がある。カフカが、自分が同性愛者であることやユダヤ人であることを肯定しきれなかったことは、彼の作品の性格を決定してはいるかもしれないが、その価値を低めるものではない。
必要なのは、カフカの作品が持つある種の政治的な特権性(広い意味の神秘化)、それはベックが言うように男性中心主義や西洋中心主義と深く関わっているであろうが、これを解体することであろう。ベックの闘いは、その点で大きな意味を持つ。
また、ベックの分析は、カフカの文学が持つ自己否定の性格が、実は西洋中心で男性中心的な近代社会の本質に結びつくものかもしれないということに気付かせてくれる。結局のところ、今日の世界でカフカがこれだけ関心を持って広く読まれているということは、カフカの文学の特質である自己否定性というものが、われわれの時代の本質になってしまっていることを意味するのではないだろうか。


もう少し、ベックの発言を引いてみよう。
カフカ本人の自己否定ということについて、ベックはこう述べている。

ゲイの歴史を見れば分かりますが、ゲイは歴史が始まってから現在に至るまでどこにでもいました。彼らのうちの皆が皆、ホモであることを隠したわけではなく、ほかの人と変わりない生活を送っていました。カフカは特に苦しんだ人なのでしょう。自分がユダヤ人であることを受け入れ、ホモエロティックな傾向を持っていることを認めることに苦しみを覚えたのです。あなたが以前におっしゃっていましたが、このことは、ろくな食事も与えられないようになりたいとするカフカの願望につながっています。カフカは普通の人になりたがったのです。断食芸人は、「食べなかったのは自分に必要な食べ物が見つからなかったからだ。見つけていたら、他の人と同じように食べていたろう」と言います。これはカフカが自分の秘密を語っている箇所だと思います。カフカ自身の言葉で言えば、「他の人と同じようになりたい、でもできないのだ」となるでしょう。こうやってカフカは自分を苦しめました。あるがままの自分を受け入れられず、かといって自分とは別のものになることもできませんでした。


最初に読んだときにはピンと来なかったが、これは驚くほど鋭い洞察だ。ここではカフカのなかにある権力的な要素が、カフカ自身のユダヤ人性や同性愛者性を抑圧したのだということが語られているからだ。ここで、カフカがなりたがった「普通の人」というのは、非ユダヤ人で異性愛の男性ということだろう。
『変身』や『断食芸人』の主人公たちの自己否定が、実は本人に内在する醜悪な権力性に由来するのだということに、ベックは気付いているのだ。それらは決して英雄的な行為でも、悲劇的な事態でもなく、自己自身のいわば「少数者」性に対する犯罪的な権力の行使なのだ。ベックのフェミニスト的な読みによるカフカ文学の特権性の解体とは、例えばこうしたことだ。
ここからは、「ひきこもり」や「拒食」の持つ暴力性が浮き彫りになってくるのではないだろうか(マゾヒズムは自己自身に向けられたサディズムだという、有名な言葉を思い出す)。


続けて、こう語られる。

ですから、私はカフカを責めるつもりはありません。カフカカフカであることによって偉大な芸術を創造したからです。
 ただ、カフカのやり方が必然なものであるとも、唯一のものであるとも考えないのです。つまり、自分が普通の人間ではないことと、ありのままの自分ではいられなかったこと、この二つの不可能がカフカのなかに悪しき緊張を生み出したのです。


「悪しき緊張」とは、いうまでもなくカフカの「自己否定」性のことであろう。これは、カフカ個人と周囲の人間を不幸にしたのだというベックの指摘は多分正しい。
だが、それと引き換えに、といえるかどうかは分からないが、カフカが「偉大」というよりもきわめてユニークで魅力のある、しかし同時に、あるいはひょっとするとそれゆえに「有害」でもある文学作品を生み出したことも事実であろう。
この「有害」性のゆえに、カフカの作品を否定してしまうことになると、率直に言ってこれは全体主義やシステムの暴力とどう違うのだろうかという気もする。



                               2004年12月6日




上記のロング・インタビューに先立つ10年前に、粉川哲夫がベックに行なったインタビューの一部も、同じ本に収録されているのだが、これも興味深いものだ。
カフカ文学の男性中心主義的な性格を批判して、自分はカフカに関心を失ったとまで言い切るベックに対して、粉川は次のように反論する。

しかし、カフカは、現実の中に否定的なイメージをみたからこそ、それをあのように否定的な形で提出したのではありませんか?カフカの作品の含意は、その世界が根底から総体的に否定されることだったと思うのですが・・・。


これに対して、ベックはこう答える。

たしかに、カフカの作品から現実否定の能動的な含意を引き出すことは可能ですし、そのことには完全に賛成です。しかし実際には、カフカは今日のシステムが変革できないということを人々がエンジョイするための制度(装置)になっていると言わざるをえません。それに、カフカ自身には、やはり、世界は変革不可能だという信念があり、作品を世界変革の経験を媒介するものとしてよりも、現実社会の批判的な鏡にとどめようとした傾向があるのです。


ぼくは、基本的にこのベックの意見に賛成する。今日の社会でカフカの文学が果たしている反動的な、人をシステムの支配の中で眠らせてしまう機能は、決して忘れてはならないものだろう。この文学がこうした機能を持つ理由は、その優れた構成力と想像力以外に、近代の支配的なイデオロギーである男性中心主義や西洋中心主義に本質的な自己否定性を、カフカの文学が主要な性格として持っているからである。
さらに、カフカ作品が持つ「異化効果」を挙げて、その「変革」への意志を主張しようとする粉川に、こう彼女は答える。

カフカにも異化効果が見出せるというご意見には賛成です。しかし、問題はその方向です。カフカの異化効果は、ブレヒトのそれとはちがって、世界変革の可能性へ向けられてはいないので、読者は異化された世界の向こう側には何も見出すことができません。おっしゃるように、“世界を根底から総体的に否定する”ムードを見出すことはできますが、わたしはもっと具体的で過少な影響力を文学に期待します。ところで、わたしは、ブレヒトの異化効果も女性を人間として扱うことにはあまり成功しているとは思えません。いずれにしても、フェミニズムの観点からは、わたしにはカフカはもはや有用ではないのです。


ドゥルーズ=ガタリのように、カフカの文学を「機械」または「装置」として用いるというのならともかく、作家カフカのうちに「変革」への意志を見出そうとするのは、あまりにもロマン主義的な態度というものだろう。ベックが言うように、カフカは主観的には現実の批判者ですらなかったと思う。カフカほど反動的な人間はいない、ということはおそらく真理である。


                             2004年12月7日