親を介護するということ

今年の5月から今ごろにかけては、ぼくが生きてきたなかでも指折りの、風が心地よい年ではないかと思う。とにかく、この時期の、木々の葉の間を渡ってくる風が大好きである。


病に倒れて寝たきりのようになった年老いた親の看病や世話をしていると、親から、おまえの方が疲れて倒れてしまうから、あるいは、何もできなくなるだろうから、私を放っておいてくれ、というふうにいわれる場合がある。
家族の数が少ない場合にはとりわけ、またかりに多かったとしても、人間一人の介護を日常のなかでするというのは大変なことであるので、多くの場合、そうした親の心配は杞憂ではないはずだ。極端な場合、その心配から、親が自ら死を選ぼうとすることも考えられる。


もちろん本来は、子どもだから親の世話をすべてしなくてはいけないなどと決まってはいない。関係性と、困ったり生命の危機に瀕している人を、誰がケアし、誰が救うかということとは、本来はまったく別の問題である。そうあるべきだと思う。
しかし、現実には、そういう「筋」を押し通すようなことはせず、あるいは「筋」はそうであることを頭では認めながらも、社会的な、個人的な、心情的な、その他もろもろの事情から、実際には親の世話を引き受ける、というふうにならざるをえない。
そうならざるをえないこの社会の仕組みはおかしいということ、それが多くの他人を苦しめることにつながる仕組みであると考えながらも、現実には自分自身をも苦しめることになるその仕組みに従うという選択を、かなりの数の人がするのだと思う。
つまりこの人たちは、社会の仕組みを変えるべきであると主張し、そのための行動をしながらも、同時に日常の生活においては、その現在の仕組みのなかで生きて自分自身も苦しまざるをえない。
これは、重苦しい現実だ。


ところで、親が上記のように「私を放っておいてくれ」と言う時、言われた側はどう感じるだろう。ぼくが第一に感じるのは、寂しさである。
それは、親が自分を「子ども」としてしか見ていない、したがって、親自身のことを「子ども」に対する「親」としてしか考えていない、という感覚だ。「親」でもなく「子ども」でもなく、いやもちろん親子ではあるのだが、つまりそういう「仕組み」のなかで決められた役割同士のつながりは、それはそれで軽視できないリアリティーを持っていることは否定できるはずもないのだが、ただそれだけの関わりで終わったのでは、互いに生まれてきて出会った意味が、あまりに薄いではないか、水臭いじゃないか、という気持ちである。
親であり、子ではあるのだが、同時に人と人、他人同士としても互いを認め合いたい。
そういうものとして、目の前の苦しんでいる人、衰え弱っている人を救いたい、ケアしたい、という気持ちがある。まして、この目の前の他人は、自分がもっとも長い時間にわたって濃い関わりを持ってきた他人なのである。
その関係性を、「親」や「子」という、世の中の約束事にすっかり覆いつくされて、見えないままにされてしまうというのは、あまりにも寂しいことだ。
あなたが「親」だからではなく、あるいは「子ども」だからではなく、あなたが目の前の存在であるから、私に対してたまたま呼びかけてきた「誰か」であるから、私はあなたを救う。ほんとうは、そして重苦しい社会の仕組みの外側でせめて少しだけは、そのように言いたいのである。


追記:さっき、上のように書いたのだが、うまく言えてないところがある。親に上記のように言われるとき、それがすべて「こちら側の」(世の中の)論理であり枠組みであるように思え、目の前の相手(親)が、そのなかに飲み込まれて消えてしまうように感じられることが、なんとも寂しいのである。人は、そうではないこの世の「剰余」においてこそ、他人を愛したいと思うものではないだろうか?