『パッチギ!』受賞なし!

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060303-00000514-yom-ent

これは露骨だろ。
井筒監督は憮然としてたよね。
ぼくは、今回の日本アカデミー賞にノミネートされていた他の映画をほとんど見ていないし、12部門を独占した『ALWAYS 三丁目の夕日』という作品も見ていない。
だから、賞の選考が公平に行われたどうかの判断はできない。まあ、他の作品を見てても決められないが。


しかし、『パッチギ!』が1部門も受賞できなかったというのは、この作品が独立系の製作によるもので、日本アカデミー賞が前々から大きな映画会社の持ち回りで賞を決めているのではないかと批判されていることを差し引いても、やはり異様だとおもう。映画界なのか、メディアの世界全体なのか、ひとつのメッセージをそこに感じる。すごく露骨な、拒絶のメッセージだ。
しかもそれを、監督をテレビカメラの前に引き出して、公開の場でやった。


この賞は、日本テレビ系で授賞式が放送されているということがあり、最優秀作品賞をとった作品は、同系列でゴールデンタイムに放送されることが慣例になってたと思う。
パッチギ!』については、各テレビ局は放映を拒むだろうという予測があるようで、その意味でも今回の受賞の行方がどうなるか、注目されていたらしい。


ぼくがすごく嫌なのは、芸術(娯楽)作品としての映画の選考が公平に行われなかったからではない。
率直に言って、毎回テレビで生放送しているこの賞は、一種の政治だろう。それは、作品が持つ普通の意味での政治や思想的な傾向が受賞に影響するだろうという意味もあるし、映画会社とかテレビ局や新聞社の商売上の思惑に左右されるだろう、という意味もある。
はっきり言って、それでいい。大きな映画の賞というのは、そういうものだと思う。
だからこそ、『パッチギ!』をノミネートだけしておいて、井筒和幸をわざわざテレビカメラの前に引き出しておいて、1部門も受賞させなかったという、その政治的な思惑と手法が気に食わない。
そういう資本の思惑が、映画の世界でも堂々とまかりとおってしまう今の社会の現実が気に食わない。


こういう時代だからこそ、今のような右傾化した政治と社会の現実があるからこそ、『パッチギ!』は、この大きなショー的な賞において、高い評価を受けるべきだった。
たとえ、他の作品(今回の受賞作)が『パッチギ!』より本当に優れていたとしてもだ。
そういう政治的な冒険をあえてしないで、どうやって映画を、資本や政治から守るのだ。


これは、ぼくが『パッチギ!』という作品を、どの程度に評価しているかとは、別の問題だ。


まだ監督のコメントも出てないのに、しかもじつは受賞式の中継さえ一瞬しか見てないのに、先走ったことを書いてしまった。
でもほんとに、これはいくらなんでもあんまりだ。
映画ぐらいは、もっと反体制的であるべきだ。