チベット問題をめぐって、さらにいくつか

昨日だったか、フランスの大統領のサルコジが、チベット情勢を理由に北京オリンピックの開会式のボイコットもありうるという発言をした。

暴動を支持すること

ぼくは、いくつかの報道から、今回のチベットでの出来事の背景には、歴史的な背景や独立への要求等に加えて、民族差別的なものと自由経済の導入に伴う経済的な要因(チベットの若者たちの困窮)があるのだろうと考えているので、同様の背景を持った移民二世の若者たちの「暴動」を弾圧したサルコジが、今回このような態度を示していること自体は、じつに白々しいことだと思う。


今回の出来事について、チベットの人々を支持する人たちも「暴動」という語の使用を避けているように思われるのは、間違ったことであると思う。
経済的・社会的(差別など)に追い込まれた人たちには、暴動を起こす権利がある。
そのなかで起きる個々の暴力*1は、それ自体としては許されないものが大半だろうから、個別に弾劾・審判されるべきだが、暴動を起こしたからといって、それを軍事力や警察権力の行使によって暴力で鎮圧してよい、ということは絶対認められない。
民衆の暴動(行動)のなかで起きる個別の犯罪や暴力を容認しないということを、その行動全体に対する国家的な暴力の行使(弾圧)を是認するための隠れ蓑にしてはならないのだ。
これが基本であって、そこを擁護しない論理は、いったい行動の何を擁護するのか、と言いたいほどだ。だいたい、行動や理念が「平和的」とか「民主的」かどうかなんて、最終的には権力を持っている側がどうにでも決められることである。
生活や精神的・文化的な拠り所を侵害されて追いつめられた人たちの行動の全体を、まずは無条件で支持する、という態度がとれなければ、この人たちとの連帯など不可能なはずだ。
十分に自由市場化されていない国家において軽視されている「人権」や「自由」の不可侵性は擁護しても、そこで法を侵犯してでも起こされる国家や市場原理に対する「暴動」の正当性は認めずにおこうとする、あらゆる国家の思惑に抗して、「われわれは暴動を支持する」というべきなのである。

人命の道具化

ところで、フランスがこのような対応をする背景には政治的な思惑があるのだろうという観測もあるが、逆にこのような対応を「しない」側、つまりアメリカや日本のことだが、そちらにも、それなりの政治的思惑があるのだから、サルコジの発言をパフォーマンスだと言って揶揄することも、あまり当たらないだろう。
こうしたフランス政府が示している態度には、中国に弾圧をやめさせ対話を促す一つの働きかけのあり方として、一定の説得力がある。
もちろん、よく言われるように、そして今回もブッシュや中川秀直が言動で示しているように、強硬な姿勢をとらないことにより対話を促すという選択肢もある。
どちらに実効性があるのか、また双方の態度とも、本当に「実効性」を目的にしているのかどうか自体、まことに疑わしい。
だが、問題はそういうことではなく、中国の行動に対して明確な批判を行わず、また「五輪のボイコット」を語らない人たちが、「なぜそれを語らないのか」という、その理由なのである。


五輪への参加や、開会式への参加をボイコットするという手法に関して、その実効性は別にして、「スポーツを政治の道具にするな」という批判が、よくなされる。また、選手たちが犠牲になるのは可哀相じゃないか、という感想はもっともなものだ。
だが、もし本当に「ボイコット」に弾圧をやめさせる実効性があるのなら、それを行わないのでは、チベットの人たちの命や人権はどうなるのだ?
政治の道具ではなく、人の命を救う道具になるかどうかということであって、その立場に立つ以上は、もし本当に唯一有効な手段なら、北京五輪のボイコットは行うべきだと、ぼくは思うのである。
ところが、そういう観点から、この問題を考えている政治家やマスコミは、日本には存在しないようである。


政府はもちろん、普段はあれほど中国を批判し、排外主義的な世論を扇動している麻生太郎をはじめ自民党の政治家や、石原慎太郎さえ、五輪のボイコットということは、決して言わない。
それどころか、誰一人中国政府を明確に批判する者は、この人たちのなかにはない。
理由は明白で、北京五輪開催が、中国だけでなく、アメリカ政府にとっても、大企業やマスメディアにとっても、大衆にとっても、もっとも望ましいからであり、端的にチベットの人たちの人権や人命より、そちらの方が大事だからである。
アメリカや、マスコミを含む大企業の利益に反するようなことを、日本の政治家が公言できるはずがないのである。
また石原にとっては、東京での五輪開催を目標に掲げている手前、IOCに泥を塗るようなこともするわけにいかないという事情があるのだろう。


要するに、みんな政治的・経済的思惑だけで動いていて、その都合に合わせて、「チベットに自由を」とか「平和的な解決を」とか言い、また「スポーツは神聖だ」とか「やっぱり人権の方が大事だ」とか言ってるわけである。
五輪に関して言うなら、「スポーツを政治の道具にするな」というのは、「自分たちの娯楽や金儲けや政治的目的追求の邪魔をするな」ということの言い換え(偽装)にすぎない。
ここでは、「スポーツが政治の道具にされている」ことではなくて、(抑圧された人々の)「人命が政治の道具にされている」ことこそ、問題なのである。


だいたい、現在の産業化されたプロスポーツだの、近代スポーツの国家中心のあり方のなかで、人間とスポーツとの関わりや、人間の身体のあり方が、どれほど歪められてきてると思ってるのだ。
話が広がりすぎたが、政治家やマスコミが、人命について真剣に考えず、自分たちの利益を守ることの言い訳として「スポーツ(五輪)の独立性」のようなことを言って平然としていること、そのことを漫然と許しているぼくたちの日常の欺瞞的なあり方を、指摘しておきたかった。




参考記事

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/china/130055/

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/130615/

*1:今回も、中国人の経営する商店が襲われているという、日本人学生の証言がNHKのニュースで流されていた。