『公共性』

世界から身を退くことは個人には害になるとは限りません. ・・・・・しかし一人撤退するごとに, 世界にとっては, ほとんどこれだと証明できるほどの損失が生じます. 失われるものとは, この個人とその同輩者たちとの間に形成されえたはずの, 特定の, 通常は代替不可能な<間>in-betweenなのです. (ハンナ・アーレント 阿部斉訳『暗い時代の人々』1986年 河出書房新社より)(本書より孫引きしました。)


公共性 (思考のフロンティア)

公共性 (思考のフロンティア)


この本は、次の三つの意味で読む価値があるとおもう。


① 「公共性」という、現在曖昧にもちいられ流通している概念について、その意味を整理し、自分なりにとらえなおすきっかけを与えてくれる。


② 現代の社会、とりわけ日本社会が直面している諸問題(ネオリベ労働市場、行政権力と生命の保障、市民運動と政治性、貧富による社会の分断と監視社会、などなど)について具体的にかんがえる手助けとなる。


③ 公共性や公共空間を論じた西洋の思想家たち、とりわけハンナ・アーレントの思想について知るための格好の入門書である。


以下、本書のなかから特に関心をひかれたことについて、いくつか書いてみる。例によって長いです。
(同書について言及された他の方のエントリーを、追記しておきます。)


まず、この本の「はじめに」という部分は、重要なことがたくさん書いてあるのだが、そのなかで「公共性」という言葉についての用語解説がされているくだりがある。
著者は、そこで、「公共性」という語が使われる一般的な意味合いを三つに分けている。ひとつは、『国家に関係する公的な(official)ものという意味』。このカテゴリーには、公共事業、公共投資公的資金、公教育、公安、などが含まれるという。
ふたつめは、『すべての人びとに関係する共通のもの(common)という意味』で、これには、公共の福祉、公益、公共の秩序、公共心、などが含まれるだろう、とされる。
そしてみっつめとして、次のように書かれている。

第三に, 誰に対しても開かれている(open)という意味. この意味での「公共性」は, 誰もがアクセスすることを拒まれない空間や情報などを指す. 公然, 情報公開, 公園などの言葉はこのカテゴリーに含まれるだろう. この場合には, 秘密, プライバシーなどと対比される. この意味での「公共性」にはとくにネガティブな含みはないが、問題は開かれてあるべきものが閉ざされているということだろう. 一例を挙げれば, 水道と木陰とベンチと公衆トイレがある空間は, 人間にとっていわば最後のセイフティ・ネットを意味するが, それをしも奪い, 公園を閉ざされた空間にしようとする動きがあるのは周知の通りである. (pix)


もちろん、公園のことが書いてあるのでここに引用したのだが、それだけでなく、「秘密, プライバシー」という概念が、公共性(open)に対比されるものとして示されていることにも、留意していただきたい。
このことについては、最後にふれる。

マイノリティとパーリア

次に、これはぼくの勉強不足で、アーレントのもちいている「私的(private)」という語を、自分や家族の私生活にしか関心のない日常に埋没した生、みたいな意味に思っていたのだが、そうではないようだ。
著者によるとこれは、公共性を奪われた生のあり方を指す言葉らしい。公共性を奪われているとはどういうことかというと、自分の発言が他人に聞いてもらえず、自分の存在が他人に認めてもらえず、他人たちから「あたかも存在しないかのように」扱われる人たちのことである。
つまり、この人たちは「他者の存在を奪われている」。
こうした境遇におかれた人たちが抱える最大の問題とはなにか。アーレントの分析を紹介して、著者はこう書く。

見棄てられた者たちの問題とは, 彼らが自らの「存在意義」を自分で疑うことにある. (本書 「はじめに」より) 

公共的空間が暗黙のうちに及ぼす排斥の力は, この境遇に生きる人びとによってしばしば内面化されてしまうからである. (同上)


アーレントは、こうした人々のことを、「場所なき者たち」とか、「パーリア」と呼んでいるそうだ。その代表的な例としてあげられているのは、大戦間期ユダヤ人(彼女自身もそうだが)であり、アーレントには、『パーリアとしてのユダヤ人』という著作もある。
だが、ここで著者は、このような境遇に置かれている人たちは、『今日においても夥しい』と書く。こういわれると、たとえば難民とか野宿者の人たちを思い浮かべるだろう。だが、著者が念頭においているのは、それだけには限定されない。たとえば、『都市部の高齢者や、育児・介護に長期間縛り付けられている人びと』が例としてあげられているが、今日の社会のなかで、もちろんその幅はさらに広いだろう。
こうした人々の存在を、著者はアーレントと共に、公共空間を形成しがたい条件におかれた人々、ととらえるわけだが、その数は膨大である。つまり、語の単純な意味においては、この人々を「マイノリティ」と呼ぶことはできないのだ。


これが、じつは本書のポイントのひとつなのだ。
人間の存在を「有用性」のみによって計ろうとする現在の社会は、自分の存在意義を疑う「見棄てられた人たち」を大量に生み出しているが、著者の考えでは、この人々は「マイノリティ」とは呼ばれない。それは、「マイノリティ以前」であるとされる。「マイノリティ」と「マイノリティ以前(パーリア)」とは、どう違うのか。
どちらも、政治的な言論の場である公共空間との関係において、そこから排除される立場にある点は同じである。だが前者の場合、そのなかでは自分の存在が肯定されていると感じられるような場所、「対抗的公共圏」とか「親密圏」と呼ばれるような空間を持つことによって、社会全体の公共空間に参入していくことが可能となる。こうした、「感情」を育み、社会のなかで発言できる存在となることをマイノリティの人たちに可能にする場所の存在は、この意味でたいへん重要なのである。
だが、パーリアの場合は、それとは異なる。

マイノリティとして自らを理解し, 自らの公共圏をつくりだしていくための最低限の資源, つまり他者の存在がこの境遇には欠けている. (p17)


著者は、これを他者を持たないことから来る「孤独」と定義し、この人たちは、公共的空間からもっとも隔たったところに位置している人たちだ、という。
そして、次のように明言する。

マイノリティ以前の孤独という問題は, アイデンティティをめぐる承認の問題と同じくらい, あるいはそれ以上に根の深い問題であると思える. というのも, 孤独という生の境遇が提起しているのは, アイデンティティに対する承認(recognition)というよりも, 存在に対する肯定(affirmation)だからである. 自分は居なくてもよいのではないかという存在のリアリティに対する疑いは, 他と異なった自らの生き方が等しい価値をもつものとして, 尊重され, 承認されていないことへの怒りや悲しみよりも, より痛切なものであるだろう. (p18)


じつを言うと、著者は、「アイデンティティ」という概念そのものを、著者が公共性のもっとも重要な条件とかんがえる(自己の)「複数性」を阻害しかねないものとして警戒していて、終章では、自己にとっての危機とはいわゆる「アイデンティティ・クライシス」ではなく、「アイデンティティという危機」であるとまで述べている。
こうした著者の考えには、ぼくとしては、やや異論がある。


ひとつ言えることは、著者が言うように、現在の社会では「分断」によって多くの人々が「孤独」(パーリア)の状態におかれているのはその通りだが、そうした事情はマイノリティの人たちの集団においても同様だ。「社会的に成功したマイノリティ」は、多数ではない。マイノリティの多くは現代の社会では、「アイデンティティをめぐる承認の問題」と「マイノリティ以前の孤独という問題」という二重の困難を、複合的にかかえていると考えるべきだろう。
また、「対抗的公共圏」の存在によって、マイノリティーが公共空間に参入しやすくなることは事実だろうが、それは「可能になりうる」というだけであって、置かれた状況の困難さや不安定さが軽減されるということではないと思う。
著者も述べているように、現実の社会のなかでは、「対抗的公共圏」の存在はつねに脅かされている。
そうした「対抗的公共圏」によって保障されるしかないマイノリティの公共的な立場というものは、現在の社会ではどうしても不安定なものであるほかはなく、「アイデンティティをめぐる承認の問題」が重要さを失うということはない。

著者のアーレント批判・行政権力と生命の保障

著者のいう「アイデンティティという危機」が重要であるとすれば、それは公共空間において、言語的な生の次元が身体的な生の次元に対して抑圧的に優位にたってしまうということ、つまり身体的な生の次元が政治的な思考と議論の場としての公共空間から排除されてしまう、という意味においてだろう。
言語的な生の次元の重要性(その複数性)を重視するあまり、身体的な生の次元が公共的な議論のテーマとはみなされなくなる。
だが、このいわばアポリアは、公共空間を成立させる要素として「複数性」をもっとも重視したアーレントの公共性論にも、同様にみられるものだったことを、著者自身が本書で語っている。
そしてこの問題こそ、本書の最大のテーマに関わっているのである。


著者の解説をぼくなりに要約すると、アーレントの公共性についての思想のポイントは、「複数性」によって確保される「政治性」を、公共空間のもっとも重要な要素とかんがえることだった。
人が政治的存在としてあることを、公共性についての思想の核心に位置づけるという考え方は、著者がアーレントから継承する最大のものである。
ところが、著者のアーレント観によれば、アーレントは人間の身体的な生の次元(ゾーエー)を、いわば先験的に「共約可能なもの」、複数性をもちえないものとみなしたために、この次元を政治的な言説の場から排除することになってしまった。

アーレントは, 身体とその必要を言説以前のものとし, 自然的な与件とみなすことによって, その必要を実質的に定義し, 生命を保障するという膨大な権力を, 公共的空間の政治から取り去り, 行政権力にあずけてしまったのである. (p60)


こうしたアーレントの、言語的な生の次元(ビオス)のみを射程とする公共性論によっては、『ゾーエー=生物学的生命が公権力の主題となる』(p60)近代以後の公共性の問題については、十分とらえきれない部分がある、というわけだ。
これが、著者によるアーレント批判の眼目だといえる。


こうした視点にたつ著者は、アーレントが議論の場としての公共空間成立のための前提とした(社会、行政による)「生命の保障」が、もはや自明な前提ではありえなくなった現在の社会において、「生命の保障」、つまりゾーエーにかかわる領域を、いかにして公共空間における政治的言説の主題にしていくか、というテーマを論じていく。


そこでの戦略のポイントは、公共性における議論を、「ニーズを解釈する政治」としてとらえなおそうとする点にあるようだ。

公共的に対応すべき生命のニーズをどう解釈し, どう定義するかは, 行政に委ねられるべき仕事ではない. 生命のニーズが公共的な対応にあい相応しいかどうかを検討し, それを定義していくこと, まさに公共的空間における言論のテーマである. (p62〜63)


それは、自らのニーズを言語化する条件をもたない人たち、つまり「パーリア」と呼ぶべき人びとの生存の問題を、どう政治的な思考の場のなかにおくか、というテーマに関係する。
そこで言われている大事なことのひとつは、権利化しえないようなニーズがあるということ、たとえば友愛や帰属感や尊厳、それからプライバシーといったことが、人が公共的な場において生きるためにいかに不可欠かという視点である。
そして、現実の社会のなかでは、「パーリア」の人々のそのようなニーズはほとんど認められることがない。それは、「権利」として明瞭には主張しえない性質のものであるがゆえに、政治的な問題としては主題になりにくいからである。


現在の諸問題

現代社会についての著者の見解は、ここでは詳しく紹介できないが、大事なことは、著者が「社会国家」が終焉しつつある現在の日本社会を「能動的で活力のある市民社会へという方向」に向かう可能性のあるものととらえ、もしこの方向に向かうのなら、それは悪いことではないと考えている点である。
戦後日本のような「社会国家」のあり方は、人々を国家に依存させるという短所をもっていた。これがなぜ短所であるかといえば、国家統治への依存は、人々から政治的な力量を失わせるからだ。
もし、「能動的である」ことを求めるポスト社会国家的な市民社会のあり方が、国家統治に依存していた時代に比べて人々の政治的な力量が回復することへとつながるのなら、この流れは歓迎すべきものである、というわけだ。
したがって、市民社会、あるいは「市民運動」の発展は、政治的な力量の発達を意味するものでなければならない。
だが現実には、NGONPOなどの市民運動の多くは、その「非政治性」を特徴としているという点を、著者は繰り返し指摘し批判している。
要するに、ここでも公共空間の政治性こそが、重要なのである。


個人の「能動性」が重視される傾向を、基本的には肯定するといっても、それが労働市場におけるネオリベラリズム的な傾向とむすびつくことは、著者はもちろん警戒している。
この警戒はまた、それによって生じる社会の「分断」が、貧困層の人々を社会の秩序を潜在的に脅かすリスキーな存在ととらえ、監視・管理の対象として見出す権力のあり方、『社会保障から治安への公権力の重心移動』(p83)という趨勢に対する危惧ともむすびついている。
労働市場ネオリベラリズム的な傾向と、「能動的な市民社会」という流れとが結びつくことで生じるのは、弱者の「棄民」化であり、税負担を強いられている貧困層が、税さえ払えない最底辺の層へと憎悪(ルサンチマン)を向けることを利用する、『ルサンチマンの政治』(p77)という事態である。
著者は、これを阻止するためには、自分の現在の生が『幾重もの自然的・社会的な偶然性の上に築かれているという事実』(p87)を忘却しないことが重要だと書いている。

親密圏について

最後に、「親密圏」の問題について、少しふれておきたい。
先に書いた「対抗的公共圏」の多くは、人の具体的な生や生命の側面に配慮する「親密圏」という性格をそなえている。
よく言われることだが、親密圏の重要性を最初に明確に主張したヨーロッパの思想家は、ジャン・ジャック・ルソーであり、アーレントもルソーを「親密性の最初の明晰な探求者・・・・その最初の理論家」と呼んだらしい。この、ルソーに対するアーレントの態度は興味深い。
ルソーにとっての親密圏というのは、彼が「人への依存」と呼んだ一般社会、つまりアーレントが批判する「社会的なもの」からの、いわば退避の場所であった。

親密圏は, 「社会的なものの威力」, そのコンフォーミズムの力に抗するための空間として現われる. (p90)


この意味での親密圏が、マイノリティが公共空間に政治的存在として参入することを可能にする感情育成の場、つまり対抗的公共圏としても機能するわけである。
こうしたルソーの考えを尊重するアーレントの親密圏についての考え方は、ハーバーマスなどと比べると、肯定的なニュアンスのものであるように思える。
だがアーレントは、公共的空間が親密圏から単純に拡張されてくるものだとは考えなかった。言い換えると、公共性にとって、親密圏の存在は両義的であると考えていたらしい。
著者は、先に述べたような立場から、感情形成の場としての親密圏の重要性を、ここではむしろアーレントに抗して強調するわけだが、ぼくが考えたいのは、アーレントが親密圏に対してとった批判的な態度の理由である。


それは、彼女がユダヤ人であったことや、「政治犯や異邦人を家に匿うこと」という、旧約聖書以来の西洋思想の最大のテーマのひとつに関係していたはずだ。具体的にいうと、そうした「他者」を家に匿う(これが、親密性のもうひとつの意味かもしれない)という公共的な行為や友愛は、自分の家族(通常、親密圏と同義とされるもの)を危険にさらすことになる。
デリダは、ここに他者への「絶対的な歓待」というテーマを見出すとともに、家の「主人」に家族のメンバーをそのような危険においやる権利があるのかという問いや、政治的な友愛に秘められた同性愛的な欲望の問題に言及していたと思う。


ここで、はじめのところでふれておいた、「秘密」や「プライバシー」の位置づけ、ということが出てくると思う。
つまりそれらは、公共性にとってじつは不可欠のものだと思うのだが、どういう意味でそうなのか。「秘密」やプライバシーとは、国家や社会的なものからの「秘匿」を意味するだろうが、それは同時に家族という親密圏(共同体)からの秘匿でもなければならないことは、20世紀を代表するアンチ・コンフォーミズムの思想家だったベンヤミンも明言している。
アーレントが、親密圏に対して両義的であったのは、通常親密性として考えられる、家族や共同体内部の共感や「暖かさ」が、こうした本当の(他者にかかわるものとしての)「秘匿」、「秘密」を脅かすとかんがえたからではないだろうか。
だが、この意味での親密性、親密圏の構造は、まだ十分に問題化されていないようにおもう。